【特別インタビュー】歌手・さとう宗幸さん ~故郷、仙台で生まれた名曲たち~
「広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず」―仙台のご当地ソングとして多くの人に愛されており、JR仙台駅新幹線ホームの発車メロディとしてもなじみ深い「青葉城恋唄」。この曲を皮切りに、長年歌手として活躍し続けているさとう宗幸さんに、これまでの人生を振り返り、仙台への想いを語っていただいた。
―歌手としてデビューされた経緯は
歌を作り始めたのは、僕が高校1年生で、ベトナム戦争が激化していた時期です。僕と変わらない年齢の子どもたちが、毎日何千人も戦死している状況が、連日報道されていました。ちょうどその頃はフォークソングの台頭期で、反戦歌を歌うシンガーの影響を受けて、日本でもそういった歌を作る人たちが増えていたんだよね。僕もそのうちの一人として、戦争や戦争をよしとする社会を批判する歌を作り始めました。そして大学4年生になった頃、歌声喫茶に出会い、歌声リーダーのバイトを始めました。
歌声喫茶では、お客さんみんなで、歌を歌って楽しみます。歌声リーダーは、一緒に歌いながら司会進行をする役割です。
僕は最初客として店に行っていたんだけど、オーナーにこのバイトを勧められて。歌うことが大好きだったから、一も二もなく引き受けました。今思えば歌声喫茶が無かったら、歌うことを仕事にする道は無かったと思うね。
でも結局、大学卒業後は周りに合わせて就職し、東京に行きました。歌はきっぱりやめるつもりだったんだけど、歌から離れるほどやっぱり歌いたい思いが強くなるんだよね。
そんな時、関東のラジオ局の方から、ラジオに出てみないかというお誘いを受けました。実は、歌声リーダー時代に、自主制作でレコードを作っていたんです。歌声喫茶で歌った「岩尾別旅情」という曲が、ありがたいことに非常にお客さんに好評で、その評判がラジオ局の方に伝わったことがきっかけでした。ラジオを通して自分の歌が世に出た時、それが歌をなりわいとして生きていこうと決めた瞬間でした。
―デビュー後の活動は
歌手は非常に厳しい世界で、デビューしても活躍し続けられる人はごくわずか。生活していくためには、やはり仙台で活動するのが一番確実だろうということで、歌声喫茶に戻り、毎日50曲ほど歌っていました。
歌声喫茶では、ビブラートなんかをかけて、技巧をこらして歌おうとすると、お客さんに「なんだよ、格好つけて」って言われてしまうんですよ。窓をビリビリ震わせるくらいの大きな声で歌う方がうけるんです。そのせいで一度、喉を壊してしまって。お医者さんから、1週間声を出すのを休まないと、一生声が出なくなると言われてしまいました。曲作りや歌い方は独学ですが、歌声喫茶で過ごしたあの期間に鍛えられました。
―歌手活動の苦労は
自分で作った曲が増えてからは歌声喫茶をやめて、コンサート活動を始めました。でも、少し仙台から離れると、僕は全然知られていないんです。一番ひどいときはお客さんが2人しかいなかったんですよ。そのお客さんも、たまたまライブがやっていたからのぞいてみただけで、他にお客が来たら帰ろうと思っていたって言うじゃないですか。
それではライブハウス側は赤字なんですよね。でもオーナーは快くライブをさせてくれて。とてもありがたかったし、売れて、ライブハウスの方に恩返しをしたいと思いました。
―さとうさんにとって仙台はどんな場所ですか
やっぱり住めば都だね。特に仲の瀬橋のあたりが好きです。学生の頃はよく河原に腰掛けて、ぼうっと川面を見つめていました。青葉城恋唄の「広瀬川流れる岸辺」っていうのは、歌声喫茶にいた時代のあのあたりのことを歌っているんです。
東京にいた頃は、曲作りのためにホテルに缶詰めにされることもあったけど、林立するビルを見ながら曲は作れなかったね。だから僕の曲はほとんど仙台に戻ってきてから作ったものです。
幼少期からもう50年くらい仙台を見ているけど、人口が100万人を超えても、空気感はずっと変わらない。街の真ん中を都市高速が走っているような、都会的な感じがあまりないところが気に入っています。「杜の都」の名にふさわしく、緑が多い仙台が好きです。