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【欧州紀行2012―①】クラクフ、アウシュビッツその他

プラハで寝台列車に乗り、私は次なる目的地ポーランドのクラクフを目指していた。


プラハ・クラクフ間の寝台列車は睡眠薬強盗で有名な区間であったので、筆者は鍵をしっかりと閉めて警戒をしていた。列車に乗った数分後、筆者の部屋のドアを誰かがノックしていることに気付く。恐る恐る確認してみると、そこには車掌さんの姿があった。安心してドアを開けるとさっそく注意をうけた。「今のようにノックをされても今後絶対にドアを開けるなよ」。重みのある言葉であった。警戒心と列車の揺れもありあまり寝つけずにクラクフに着いた。クラクフで列車から降りるととにかく寒い。朝6時ということもあって身を刺すような寒さであった。クラクフでの最初の目的はアウシュビッツ強制収容所を見学することであった。朝8時にアウシュビッツ強制収容所直通のバスが出るとの情報を手に入れ、チケットなどを購入し、準備を整える。バスに乗ること約二時間。目的地アウシュビッツ強制収容所にたどり着いた。受付でさっそくガイドツアーに申し込み、見学が始まった。最初のガイドポイントは強制収容所の門であった。門には「働けば自由になれる」という意味の文言が書かれており、一つだけ「B」の文字が歪になっているのは労働者のせめてもの反抗であるとのことであった。門をくぐると収容棟が立ち並んでいた。収容棟は観光用に展示物が並んでおり、その一つ一つが当時の悲惨さを物語っている。特にユダヤ人から奪取した生活用品や髪の毛などは人間の惨さを改めて実感させられた。

収容棟から移動し、懲罰棟と言われる建物に入ると、そこには当時の労働者たちの写真に収容日と命日を載せたものが並んでいた。実際に施設に入っていた人間の写真に筆者は言葉を失った。約70年前にはこの人たちがこの場所にいたのだと思うとなんとも言えない恐怖感に襲われた。次に懲罰棟の地下へと向かう。懲罰には様々な種類があり、なかには懲罰の間に疲弊して命を落としてしまう人もいたようだ。この場所でも筆者は同様の恐怖感を感じずにはいられなかった。収容所から出ると、アウシュビッツ強制収容所からそう遠くない場所にビルケナウ強制収容所があるとのことであったのでビルケナウへと向かった。

ビルケナウはアウシュビッツ強制収容所よりも規模が大きく、死人も多かったと言われている。ビルケナウに着いて最初のガイドポイントは線路であった。ユダヤ人を乗せた列車がこの線路を通り、この線路の行きつく先は死であった。激しい地吹雪の中、奥へと進んでいくとそこには亡くなった労働者の慰霊碑があった。慰霊碑に刻まれた文字を見ると、言語は様々であり、世界中のユダヤ人が収容されていた事実を物語っていた。筆者は慰霊碑に合掌をしてビルケナウ強制収容所を後にした。さすがに気分は落ち込んだが、決して目を背けてはいけない人間の歴史を直接自分の目で見ることができたので後悔はなかった。忘れることのできない有意義な時間であった。

翌日はクラクフでの次なる目的地である世界遺産ヴィエリチカ岩塩鉱へと向かった。ヴィエリチカ岩塩鉱は地下深くに位置するため、常温15℃で極寒の外気とは比べものにならないくらいの暖かさであった。地下までは階段を使っての移動で下りの階段とはいえ、ガイドが始まる前には筆者を含め、周りの方々も疲弊した様子であった。洞窟の中を進んでいくと、ところどころに岩塩で造られた像があり、天井にはつらら状の岩塩の塊が見られた。しばらく歩くと大きなシャンデリアのあるホールに到着した。そこには岩塩で造られたマリア像などがあり、危険な仕事場での安全を祈願する当時の人々の思いが伝わってきた。薄暗い地下を歩いてきたせいか、このホールの放つ明るさに安堵感を覚えた。

ホールから出て、しばらく歩くと思っていたよりも長い歩行距離になぜ運動靴で来なかったのかという後悔の念が出てきた。この旅では距離を足で稼いでいたので足に限界が訪れていたのだ。足の爆弾を抱えつつ、歩いていくと何やら御土産を売っている売店が目に入った。「よし、ゴールだ」そう思ったのもつかの間、ここでしばらく休憩を取りますとのアナウンス。ここからは観光というよりは自分との戦いであった。なんとか、歩き切りくたくたで御土産の売店に立ち寄った。御土産を後回しにしたツケがここで回ってきたのだ。友人への御土産として岩塩を購入して、ヴィエリチカ岩塩鉱を後にした。
この日はもう一つ移動という重大なタスクが残っていた。くたくたで駅まで向かい、新幹線でポーランドの首都ワルシャワまで急いで移動した。ワルシャワは治安があまり良くないと聞いていたので早めに現地に着いておきたかったが、着いたのは夜の11時。駅には怪しげな人がうろついていた。宿に向かって歩き出すと誰かにつけられていることに気付く。おそらく現地語と思われる言語でなにやら話しかけてきた。とりあえず、「アイキャンスピークオンリージャパニーズ、ソーリー」と突っ込みどころ満載の英語を話し、その場を離れる。いったんは離れたその不審者であったが、まだつけてきている気配を感じたので全力で逃走を試みた。足はもうボロボロであったが、痛みよりも恐怖が勝り、宿まで必死に走り、なんとか難を逃れた。宿に着くと、安堵感と疲れで即座に寝てしまった。翌日起きたのは現地時間13時。二日間に渡って宿を予約していたのでその日は一日中ダラダラして過ごした。

ヨーロッパ最終日、筆者はワルシャワ空港に向かった。今回の旅では楽しかったことや有意義であったことがたくさんあった。しかし、トラブルもそれ以上にあったので生きて日本に帰れることが幸せであった。特にワルシャワでは生きている心地がしなかった。その当時は散々なことであっても振り返ってみると良い思い出である。一人旅の醍醐味のようなものを一通り味わえた旅であった。

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