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【とんぺー生の夏休み2019】小説部門受賞作『うっかり帳』磯崎 良

 「東北大学新聞」初となる公募型企画「『とんぺー生の夏休み』作文コンクール2019」の選考会が9月30日に開催された。応募総数は小説部門4点、エッセイ・コラム部門2点の計6点。小説部門からは磯崎良さんの「うっかり帳」が受賞した。残念ながらエッセイ・コラム部門から受賞作品は出なかったが、惜しくも今回受賞に至らなかった他の作品もそれぞれ魅力的な点が多くあり、選考会は大変な盛り上がりを見せた。

 受賞作品を決めるにあたり、報道部員9名が審査員として参加。それぞれが事前に作品を読み、各作品への感想を語り合うという形で行った。明日・明後日には、本企画主催者の石川拓音編集長(文・3)による選評を掲載する。

 本学学生だけでなく、他大学の学生からも応募があった本企画。作品を応募してくれた皆さんにこの場を借りて御礼申し上げる。

小説部門・受賞作品『うっかり帳』磯崎 良


 先輩は僕と出会ってから今日に至るまでうっかりし続けている。

 僕が先輩と出会い、そして先輩が初めて僕にうっかりを晒したのは今年の春だ。僕はその春に新入生として大学に入った。それからすぐ部活やサークルの新歓時期に入り、僕もご多分に漏れず文化系のサークルをいくつか見て回った。

 僕が先輩のサークルへ見学に行った日、僕の他に見学者は三人いて、迎えてくれた上級生は五人だった。男の人も女の人もいて、その中に先輩もいた。先輩は運動系の部活に入っているのかと思うほどガタイがよく、またなんというか、その顔つきには貫禄があった。しかしそんな見た目に反して先輩は軽妙な人で、他の部員からはしばしばおじさんと呼ばれているらしかった。先輩は自分がおじさんと呼ばれると「俺はまだ未成年じゃい」と言って返した。僕と僕以外の見学者はそれを聞いて仰天した。その様を見て先輩たちがまた笑っていたのを覚えている。

 先輩たちは、見学に来てくれた子に奢るのが新歓のならわしだと言って、僕たちを駅前のファミレスへと連れて行ってくれた。総勢八人と大所帯だったので、僕たちは四人席がふたつ並んだところに案内された。テーブルをふたつくっつけ、僕たちはいかにも大学新入生と上級生がしそうな話をした。出身はどことかひとりでの生活はどうだとか、互いに互いを何も知らないなりに会話を続けた。

 不意に先輩の前のコップが倒れた。びっくりした声がいくつかあがり、テーブルがどんどん濡れていく。先輩が誤ってお冷やのコップを倒したのだった。他の先輩たちは口々に「大丈夫?」とか「またやった」とか言っていた。先輩は謝りながら慌ててテーブルに備え付けられていた紙ナプキンに水を吸わせていた。先輩たちはみな笑っていて深刻な感じはなかった。先輩本人も冗談を飛ばしていた。

「俺うっかりさんなのよ。気をつけてはいるつもりなんだけどねぇ」
「歳じゃない?」
「まだ酒も飲めねぇから」
「未成年なのにおじさんって重症だぞ」
「うるせー!」

 それが僕の見た先輩の姿であり、また先輩への印象だった。

 それから僕は先輩と同じサークルに入った。僕と先輩は取っている講義が被っているらしく、たびたび講義室で顔を合わせた。時には隣の席にお邪魔することもあった。先輩は話しやすい人だった。気軽で話も面白く、僕は自然と打ち解けていった。そして先輩が初めに自称していた通り、先輩は相当なうっかり者らしいとわかってきた。

 まず身だしなみひとつ取っても、先輩はボタンをかけ違えていたり後ろ前逆だったりズボンのチャックから下着を覗かせていた。僕はそれらを見つけるたび先輩に教えた。先輩はいつも僕に言われて初めて気づいたような顔をして、「助かったわ」と言って言われたところを直した。ある時は先輩自ら「今日はうっかりしてない」と豪語してチェックを申し出てきたこともある。その時僕は「服のサイズが合ってない」と答えた。すると先輩は笑いながら「Lと間違えてM買っちゃったのよ」と教えてくれた。それを常用するのが先輩の面白いところだと思う。

 僕と先輩は仲良くなっていき、時折ふたりで食事に出かけることもあった。先輩はそうしたときでも欠かさずにうっかりした。先輩が犯しうる最大のうっかりとは、うっかりすることなく一日を終えることではないだろうかと僕は思い始めた。先輩も自分のうっかりに気がつくたび笑った。先輩本人もまた、自分のうっかりを面白がっているように見えた。

 ある時、僕は思いつきで先輩のやらかしたうっかりをメモ帳に記録してみることにした。うっかりを記録していくというよりは、その日あった面白いことを日記に記すようなものだ。先輩が面白いうっかりを見せてくれるから、自然と日記が先輩のことで埋まっていく。そうした感覚に近かった。

 すると想像以上のペースでメモ帳のページが埋まっていった。うっかりの内容もどんどんバラエティに富んでいく。そのうち僕はこのうっかりの記録を記していくことに興が湧き始めていた。先輩がうっかりを晒すと、先輩にメモ帳の存在を知られないよう、先輩が席を外した隙にメモするか、それを頭の片隅に留めておいて、家に帰ってからメモ帳に清書する。メモ帳の存在を隠していたのは、先輩が自分のうっかりが記録されていると知ったら変に意識してしまうのではないかと思ったからだ。こうして僕のメモ帳の中身は『先輩の犯したうっかり』と、それを清書した『先輩がうっかりした話』の二種類に分類され始めた。僕は内心でこのメモ帳を『うっかり帳』と呼び始めた。 より良い名前はあると思うが、仮の名前として扱っていくうちにこの呼び方が染み付いてしまったのだ。

 こうして二週間ほど経ったある日のことだ。僕が自宅でうっかり帳を開いてシャーペンを握り、その日の収穫をしたためようとしたとき、右手の親指に鋭い痛みが差した。思わずシャーペンを放り出したが、どうやら僕は芯を出そうとして、逆に芯が出てくる尖った方に指を突き刺したらしかった。僕はそれを理解して思わずひとりで吹き出した。僕もうっかりしている。そして目の前のうっかり帳に僕のことを書き入れたのは自然な流れだった。

 梅雨入りした頃には僕も大学生活に慣れ、うっかり帳はさらに豊かさを増していた。僕は先輩と自分自身のみならず、赤の他人のうっかりさえ帳簿に記録することにしていた。もちろん自分と無関係な人間のうっかりというのは供給が少ない。だが授業前の講義室などでは自然と人の話が耳に入ってくるし、その中にはうっかりゆえの失敗談も数多く含まれていた。人が人にわざわざ話して聞かせるものだから、自然とうっかりのレベルも変わってくる。小テストで時間が余って余白に落書きしてそのまま出しちゃったとか、地元の田舎で自転車漕いでたらくしゃみして田んぼに突っ込んだとか、質も規模も実に上等だった。うっかり帳はまるで全国各地から集めた人間の滑稽図鑑みたいになっていた。あるいは、自分のまとめたこうしたうっかりの記録が、なんらかの研究の役に立つのかもしれない。意識の灯台の根本の暗闇とも言えるうっかりが、自分のしたためたメモ帳によってある程度解明されるかもしれないなどと空想した。しかしいくらうっかり帳が発展しても、僕はなおも先輩のうっかりを記録し続けていた。先輩はすでにうっかりを幾多も重ね、それでもなおうっかりし続けているという点で稀有だった。小石をいくつもいくつも山のように積み上げることができる、ひとつの才能のようにも思えてきた。

 やがて僕は夏休みに入った。第一週目に先輩とふたりで水族館に出掛けた。前々から行ってみたいとは思っていたが、自分のアパートからは遠方の地にあり、長らく電車に乗ったり歩いたりせねばならなかったのだ。見知らぬ場所へ長旅することへの不安は僕にもあった。そうしたことを先輩に話すと、先輩が僕を連れていくと言ってくれた。先輩は何かと世話を焼いてくれて、僕は非常に助かっていた。

 その日の先輩は珍しく外見にうっかりとした痕跡はなかった。入場券を買うのにお金が足りないということもなく、自販機にお金を入れて目当てのコーラの隣のボタンを押すということもなかった。僕が相変わらずポケットに忍ばせていたうっかり帳も珍しく出番がなかった。ついに先輩がうっかりしない日が来たかと僕は内心興奮していた。

 広大な水槽を見上げ、クラゲの水槽の前で無心になり、目の前の水槽に入れられているのはウニか栗かを議論しつつ、やがて僕たちは屋外にあるイルカショーの会場に向かった。ちょうど前の回が終わったところらしく、会場からたくさんの人だかりが押し寄せてきていた。僕たちはその最中を流れに逆らう魚みたいに歩いていた。

「どこ座る? ど真ん前?」

 先輩がコーラのペットボトルのキャップを外しながら訊ねた。

「せっかくだし前に座ろうかと」
「水かかるかもよ」
「先輩はプールにうっかり落ちるかもしれないですね」
「なわけ」

 わっと野太い声があがる。先輩の手から蓋の空いたペットボトルが離れ、地面に勢いよく落下して倒れた。その拍子に残っていたコーラが傍らを歩いていた女性の靴にかかった。女性は甲高い悲鳴をあげ、さらにその女性と手を繋いでいた男性が、足下を見てちっと舌打ちをした。彼らは確かに僕たちを睨んだが、そのまま何も言わずに通り過ぎていった。白いコンクリートに真っ黒なコーラが打ち付けられたみたいに広がって染みていく。なおも人の流れは止むことなく、しかしコーラを拾い上げようとかがんだ先輩をちらと見やっては、確かに僕たちを避けて通っていった。快晴の空の下でしゃがみこんだ先輩の姿は、白紙にぽつんと打たれた黒い点みたいに見えた。

「大丈夫ですか」

 僕は先輩の傍らにしゃがみこんだ。僕の目に先輩の横顔が写った。先輩は口を固く結び、黒々とした水たまりを見つめていた。先輩は無表情だったけれど、その目の、僕に見える側の目から、一粒だけ溢れるものがあって、僕は見てはならないと思って、反射的に顔を背けた。その先には真新しい黒い染みがあった。そこに浮いた炭酸の泡がやけに大きな音で弾けていた。僕は息のしかたがわからなくなり、呼吸の音が立つのを恐れ、口で吸ったり鼻で吐いたりしていた。コーラに黒い空が写っていた。

 やがて先輩は空のペットボトルを手に立ち上がった。それから汗を拭くように顔を袖に擦り付けて、いつも通り笑って言った。

「ごめんごめん。うっかりしてたわ」

 僕はなおも先輩の顔を見れなかった。やがて水族館のスタッフさんが来て、あとはやっておきますから大丈夫ですと言ってくれた。

 イルカショーの後に僕たちは水族館を出た。僕と先輩は電車に乗り込み、予定通り駅前で解散した。僕は家に帰るなりポケットからメモ帳を取り出し、まだ白紙も多いそれを、びりびりに破いて捨ててしまった。

受賞者コメント

 このたびは私の作品が優秀賞に選ばれたということで、大変嬉しく思っております。

 作者は一度発表した作品を追いかけることはできません。発表された作品はその時点で作者のもとを離れ、一人で歩いていきます。自分の書いた作品がどのように読まれるか、どう受け止められるか、そもそも自分の書いた言葉がちゃんと誰かの中で意味を成しているかも分かりません。だからこそこうして評価頂けたことをこの上なくありがたいことと思います。

 また、小説やその作者にとって、作品を読んでくださる方々の存在は何よりありがたいものです。作者と作品、そして受け取り手が揃ってこそ創作は成り立ちます。しかしどんな作者や作品にも読者ないし受け取ってくれる人がいるとは限りません。それゆえに、こうして紙面やホームページへの掲載という多くの方の目に触れる機会を頂けたことも大変嬉しく思います。


 改めまして私の作品を読んでくださった方々、そして日頃私の作品に目を通してくださる周囲の皆様に、心より感謝申し上げます。
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