【津波被災地を走る】⑥南三陸町~気仙沼市
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南三陸町で朝を迎えました。
朝から3℃と冷え込みますが、天気は快晴。風も凪いでいます。
・さんさん商店街
まずは前日に回れなかった南三陸町の中心部、志津川地区へ向かいました。
初めに訪れたのは、南三陸町で最大の仮設商店街である「さんさん商店街」です。
2012年2月にオープンしたこの仮設商店街には、地元の事業者32店が軒を連ねています。
事業形態も外装も多彩な店舗が並んでいます。
各店で購入した料理を持ち寄って食べたり、イベント会場として利用したりすることができるようになっています。
週末は大勢の観光客で賑わうということですが、今は午前9時。
お店の方々が出店の準備をしている時間帯です。
よく目にするのが「キラキラいくら丼」というのぼりです。
キラキラ丼に用いられるのは地元の旬の食材。
丼の内容は四季ごとに変わります。
11月~2月はいくらの季節。
ゆえに、各店が「キラキラいくら丼」をこぞって提供しているのです。
ちなみに、夏には地元のうにがふんだんに乗った「キラキラうに丼」が食べられます。
以下の写真は、筆者が6月に商店街内の「志のや」さんでいただいたキラキラ丼です!
文字通り、美しいオレンジ色のうにがキラキラと輝きを放つ贅沢な一杯でした…。
この日は朝に来てしまったので、残念ながらいくら丼にありつくことはかないませんでした。
南三陸町グッズを販売している「わたや」さんを覗いてみます。
オリジナルTシャツの品ぞろえが充実しています。
何と、ここでもモアイ像に出くわしました!(前回参照)
小さくてカラフルなモアイ像グッズがたくさん売られています。
説明には「南三陸町とモアイのつながり」という文字が書かれています。
そこへ社長の菅原勝則さんが来て、モアイの秘密を解説して下さいました。
半世紀前の1960年。
チリ地震津波が南三陸町を襲い、町は壊滅的な被害を受けました。
この津波の記憶を後世に伝えようと、チリ政府からイースター島のモアイ像が送られ、町内に設置されます。
しかし、送られたモアイ像は東日本大震災の津波で流され、頭部だけの姿になってしまいました。
これを受けて、チリ政府は新たなモアイ像を送ることを決断。
イースター島の石で作られたモアイ像が、新たにさんさん商店街の東部に設置されました。
「『目』が入ったモアイ像は世界に2体、イースター島と南三陸町にしか存在しないんだよ!」と菅原さんは声を弾ませます。
「商店街の門のそばにモアイ像が立っているから、見て行きなよ」と教えて下さいました。
ここわたやは、震災前は衣料品を扱う洋品店としてお店を構えていました。
しかし、津波で店舗が流出。
現在はこの場で震災復興グッズを販売しているといいます。
「商店街で店を出している人々は、何らかのバックグラウンドをかかえているんだ」と菅原さん。
帰り際に、南三陸町のゆるキャラ「オクトパス君」の置物を購入しました。
「『置くとパス』する置物さ。縁起がいいでしょ!」と菅原さんはご満悦です。
これから就職活動が始まる筆者の御守りとさせていただきます!
商店街の東部では、高さ3mほどのモアイ像が大空を見上げていました。
町内にはこのモアイ像のほか、町内7カ所に設置されています。
前日、暗闇の中で見かけたモアイ像はその内の一体だったようです。
これらモアイ像には、海を隔てた人々の想いが込められている―。
彼らの目には、復興に向けて前進する南三陸町の姿はどのように映っているのでしょう。
商店街の入り口にはJR志津川駅の駅舎があります。
線路が津波で流された地区では、BRTと呼ばれる代行バスが運行しているのです。
商店街の北側にある階段を上ると、高台から街中を一望することが出来ました。
15mを超える津波が街を洗い流しました。
これが、中心部として栄えていた街中の現在の姿です。
・防災対策庁舎
荒涼とした中心部に、鉄骨がむき出しの建物が残されています。
防災対策庁舎です。
屋上の床上2mの高さまで津波にのまれました。
防災無線で非難を呼びかけ続けた職員を始め、多くの職員が犠牲になりました。
一命を取り留めた職員は、手すりやアンテナにしがみついていたといいます。
震災遺構として残すかどうか、今でも住民、町、県、国の間で意見が分かれ、議論が交わされています。
庁舎前に設えられた献花台の前で手を合わせ、黙祷を捧げました。
・いざ、気仙沼市へ
沿岸部のコンビニは、ほとんどがプレハブの仮設店舗です。
気仙沼市の中心部まではおよそ42km。
起伏が激しい海岸線ですが、三陸の海は青々と美しく、疲れを忘れさせてくれます。
・気仙沼市
2時間ほど自転車をこぎ、気仙沼市にたどり着きました。
中心部を回る前に立ち寄ったのは「リアスアーク美術館」。
日本建築学会賞を受賞したことがあるという、デザイン性に富んだ外観の美術館です。
企画展示室では、「東日本大震災の記録と津波の災害氏史」と題した展示を公開しています。
階段を1階へ降りていくと、そこは荘厳な空気で包まれていました。
津波の後に気仙沼市と南三陸町で撮影された生々しい写真が、時系列に沿って並べられています。
舞い散る雪の白と、燃え盛る炎の赤、津波の濁流の灰色で地獄のような町。
津波が引いたあと、2階建て民家の屋根に取り残された自動車。
港の冷凍室から流出し、腐敗してドロドロにとけたサンマの山…。
針金のように歪んだ自転車、土だらけになった人形など、被災現場で見つけられた現物も展示されています。
目を覆いたくなりますが、これらは全て現実なのです。
展示場は写真撮影が禁じられています。
気仙沼市を訪れることがあれば、あの日の惨状を皆さんの目で確かめてほしいと思います。
市の中心部に近づくと、こちらでも盛土の工事が行われていました。
漁港には大小の漁船が数多く停泊していました。
気仙沼市は漁業が盛んな街です。
カキやホヤはもちろん、カツオ、サメ(ふかひれになります!)、サンマ、カジキなど、太平洋の豊富な海の幸が集まってきます。
震災に際しては、船舶から漏れ出した燃料に火が付き、気仙沼漁港は火の海と化したといいます。
東北地方のブロック紙、河北新報の記者は、震災翌日の気仙沼市の様子を次のように表現しています。
《白々と悪夢の夜は明けた。湾内の空を赤々と染めた火柱は消えていたが、太陽の下にその悪夢の景色はやはりあった。1つの町の区画がそっくり焼け焦げていた。…》
(『河北新報の一番長い日』より引用)
筆者には想像することすらできない凄惨な描写です。
漁港に併設された「お魚いちば」では、水揚げされたばかりの新鮮な魚介類や、気仙沼ならではの加工品を購入することができます。
市場内にあるレストランで、気仙沼市のB級グルメ「気仙沼ホルモン」をいただきました。
豚の大腸や小腸のみならず、ハツやレバーなどの部位も含まれています。
ニンニク味噌だれで食べごたえ満点!
ご飯がすすむ逸品です。
あとはお土産を購入し、輪行バッグにクロスバイクを入れて帰るのみ。
市内にある3つの仮設商店街に立ち寄りました。
気さくな店主の勧めで、自分もほやぼーやになりきってみます(笑)
どこに行っても、お店の方々は優しくもてなして下さいました。
あまりの居心地の良さに、のんびりとしていると…
仙台市へ向かう次の電車は90分後です…(自転車を乗せるため代行バスは利用できないので、一関市経由の電車で帰る必要があるのです)。
駅の近くで電車を待つべく、一軒の老舗餃子屋に入りました。
本企画で最後にお世話になるのはここ「とちめんぼう」です。
店内では、生まれも育ちも気仙沼市というご主人、佐藤真一さん(67)が黙々と餃子を包んでいました。
カウンター席が8つのみの店内で、先客はゼロ。
壁に貼られたメニューに目を向けると、定食でも500円以下!
とにかく安いです。
「俺は計算が苦手だから、分かりやすい値段のほうがいいんだ」とおどける佐藤さん。
目の前で包んだばかりの餃子を、慣れた手つきで年季の入った鉄製のフライパンに投入していきます。
運ばれてきた餃子は見事なきつね色。噛むほどに肉汁が溢れ出てきます。
港を襲った巨大津波は駅に向かって商店街へ流入してきましたが、お店の前で止まったのだそうです。
いくつか食器が割れるなど、店舗も被災しましたが、震災10日後にお店を再開。
暖かい餃子を求める被災者や、各地から訪れるボランティアで賑わったのだとか。
「中国からマスコミの人が来てね。カレーを出したんだけど、卓上の福神漬けを全部かけちゃって。せっかくのカレーが台無しさ。はっはっは!」
佐藤さんは懐かしそうに笑います。
私が写真の撮影をお願いすると、喜んでお受けしてくれました。
「震災後は『珍しい餃子おじさんがいるぞ!』なんて、訪れる皆が写真を撮ってくれたのにね。最近ではボランティアもめっきりと減ったな」。そういって少し寂しそうにうつむく佐藤さん。
思い切って尋ねました。故郷が津波で跡形もなくなり、盛土工事で故郷の景色が変わることを、どのように受け止めているのか、と。
佐藤さんはほほ笑んで答えました。
「だれもが故郷の景色は変わってほしくないと思っている。だけど、地盤が沈下した以上、何か策を講じないと住むことができないんだ。それなら工事をするしかない。ここで生きるために」
「辛いとか、悲しいとか、言ってられないんだよ。町が生まれ変わるのを待つしかない。俺は、こうやって餃子を焼き続けるだけだ」
予約が入っている分の餃子を黙々と包み続ける佐藤さん。
筆者はお礼を言い、お店を後にしました。
仙台駅に着いたのは午後9時。
ペデストリアンデッキはきらびやかなネオンで照らされています。
ごった返す駅前の喧騒を横目に、岐路に就きました。
以上で、全6回にわたりお送りしてきた「津波被災地を走る」を終了します。
取材に応じてくださった現地の方々には感謝してもしきれません。
本当にありがとうございました。
最後に、東日本大震災で犠牲になられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
(文責:立田)