学友会報道部のすすめ 歴代編集長が語る魅力と軌跡
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私たち東北大学学友会報道部は、学内最大の大学公認メディアとして活動している。『東北大学新聞』を制作し、一年間で8回の通常号と3回の特別号を発行している。記事の企画立案や取材交渉、広告依頼、取材、記事執筆、原稿添削、紙面編集、入稿まで一から全て学生だけで行っている。
現在、報道部では新1年生・新2年生から、共に活動する仲間を募集している。報道部に少しでも興味を持っている人は、報道部の新歓に来てみると、現役部員から話を聞いたり、部の雰囲気を感じたりすることができる。
現役部員は第65期と第66期から成るが、この4月号兼500号の折に、過去に報道部で編集長を務めた方々に、報道部に関する質問に答えていただいた。以下ではその回答を取り上げる。そこからは報道部の魅力や、部の活動の軌跡、先輩たちの並々ならぬ思いが垣間見える。(瀧沢和樹)
―「東北大学新聞」・「学友会報道部」の存在意義、役割についてどう考えるか
(第56期中田哲哉さん)
存在意義は、学内外の情報を学生の目線で捉えてそしゃくし、学生や読者に伝えられることだと思います。世の中に情報があふれ、自分で調べれば多くの情報が手に入る時代ではありますが、学生である部員が自分の知りたいことを追究した記事は、他の一般紙とは異なる切り口になっています。また大学近辺のグルメ情報やサークル紹介、七大戦に関する記事は大学新聞ならではですし、学生だけでなく受験生も興味を引く内容かと思いますので、今後も期待しています。
(第59期石川拓音さん)
「存在意義、役割」というと学生発メディアとしての価値を発揮すべきだと思われるかもしれませんが、第一には、学生記者のチャレンジの場であってほしいです。人と向き合い声を拾い上げるというのは、それだけ困難を伴うものだからです。学生一人ひとりが、忘れられない人との体験を一度はしてほしいと願っています。
(第60期原中翔輝さん)
「東北大生の等身大の姿を伝えること」だと思います。研究内容や部活動・サークルでの活動、学生の考えや意見――。ありのままの「とんペー生」を同じ学生の視点で描いてきました。また、それぞれの報道部員が興味・関心のある大学の研究や取り組み、ときには報道部員が見て感じた仙台市内・宮城県内、はたまた日本全国や世界の出来事や動きについても取り上げてきました。それらを発信することで、報道部員を含む東北大生と読者の距離を縮めてきた59年だったと思います。後世の人が振り返ったとき、その時代時代の東北大生の活動や考えを少しでも知ることにつながるという意味でも意義深いのではないでしょうか。
(第61期小松士恩さん)
私が編集長を務めていた際、個人的な目標として掲げたのは「読まれる新聞」を作ることでした。ただし、一口に「読まれる」といっても、読者の目を引くセンセーショナルな内容だけでなく、学生新聞としての規範的なコミュニケーションも必要です。学内の人間として知っておくべき情報を過不足なく発信し続けることや、社会一般の話題に対しても東北大学の学生ならではの視点で切り込むことが必要です。また、東北大学新聞は大学公認のメディアである一方で、その軸足を読者の利益に置き、読者の声を代弁するという役割も担っています。
東北大学新聞は常に多様なトレードオフの中でバランスを取る必要があります。後輩たちには、これまでの報道部員たちがそうしてきたように、多くのトレードオフに直面しながら、「読まれる新聞」であるために、その時々でどこに立ち位置を置くべきかを考え続けてほしいと思います。
(第62期藤井千尋さん)
学生目線で東北大の歴史を伝える貴重な資料だと思います。創刊したころの東北大学新聞を見ると、時代は学生運動まっただ中で、部室棟に家宅捜索が入った記事などが掲載されています。私たちの学生生活は、ほとんど公式の資料や写真に残りません。だからこそ学内の動きを残していくことは自分たちにしかできない。大切な役割だと思います。
(第64期鈴木舞優さん)
学内の声を拾うこと、そしてその時学生たちが何に関心を持ち、何に疑問を持っていたかを記録することだと思っています。東北大学新聞は、伝えるべきことを部員が自ら見つけ、自分なりのやり方でそれを伝えようとしています。大学という狭いフィールドの中だからこそ、なかなか他では拾われないような小さな声を拾い、伝えることができます。そして新聞は、それらを記録し残すことに長けたメディアです。
過去の東北大学新聞を読んでみると、今とは全く雰囲気が異なる事が分かります。東北大学新聞は、その当時どんな時代だったか、学生の関心がどこにあったかありのままを映し出しています。そのため、東北大学新聞はこれからも学内の声を拾い、記録し続けていく必要があると思います。
―今、自身が編集長の時の活動を振り返って何を思うか
(第56期中田哲哉さん)
記事ネタの考案や取材、編集といった新聞発行のための時間はみんなが熱量を持って取り組み、記事の内容や編集方針について活発に議論したことは楽しかったですね。他の学部や違う生い立ちの人の考えを聞くことは良い刺激になりました。また、部員との飲み会や部室での雑談といったオフの時間も記憶に残っています。新聞発行とは関係なく一見無駄に思える時間ですが、これらを通じて部員間のつながりや情報交換による閃きにつながっていたと感じています。
(第59期石川拓音さん)
編集長としての自分自身を振り返ると、できたこととできなかったことが半分くらいずつあるなあという印象です。ただしそれらにかかわらず、新聞を通じて「言葉」というものに意識的になれたことは、その後の人生に大いに役立ったと強く思います。
(第60期原中翔輝さん)
編集長を務めた2019~20年は新型コロナウイルス感染症が猛威をふるった時期でした。大学での学びや研究活動が制限され、当然部活動にも大きな制約がある中、当時の部員ら関係者の皆さんの支えのおかげで発行を続けられました。結果的に500号につながったとすれば、少しでも力になれたのかなと思います。
(第61期小松士恩さん)
私が編集長を務めた2020年から21年にかけては、新型コロナウイルスの影響により、報道部の活動が大きく制限されていました。報道部に限らず、多くの部活動やサークル活動が部室に集まることさえ難しい状況でした。当時、新歓活動もオンラインで行わざるを得ず、私がその年の1年生たちと実際に顔を合わせたのは、入学式から半年ほど経った頃でした。報道部が対面での活動を十分に行えず苦しむ一方で、東北大学新聞の読者の多くもキャンパスとのつながりを断たれていました。東北大学新聞が果たすべき、読者の利益を守る役割は、それまで以上に重要なものとなっていたと思います。大学の新型コロナ対策や、さまざまな制約の中で工夫を凝らして活動を続けるサークルの様子を取り上げるだけでなく、学外のメディアと連携を図ったり、SNSを活用して紙面以外の場でも迅速に情報を発信したりと、さまざまな工夫を試みました。振り返ってみると、報道部としても制約が多い中、多くの創意工夫が実現できたのは、同期の部員や、当時報道部への入部を決意してくれた後輩たちの支えがあったからだと思います。
(第62期藤井千尋さん)
非常に熱意あふれる活動をしていたと思います。新聞としての質を高めるため、記者さんから記事の書き方を教えてもらったり、商業紙のレイアウトを研究したり。誤字脱字をなくすため、締め切りぎりぎりまで一字ずつ記事をチェックしたりしていました。今思うとなぜあれほど情熱を傾けていたのかと思うほど、真剣に取り組んでいました。東北大学新聞の歴史に恥じない質の高い新聞を発行できていたという自負がありますし、それだけ一緒に熱中できる部員と出会えたことも幸せでした。
(第64期鈴木舞優さん)
部員はそれぞれに思いがあります。何がしたくて報道部に入ったかも違います。それぞれを尊重しながら1つの新聞を作るというのは本当に難しいことでした。ですが、一人一人考えが違うからこそ、バラエティーに富んだ紙面ができるのだと思います。無理に考えを統一しないというのも、一つの正解だったのではないかと思っています。
―報道部で印象に残っていること、思い出深いことは何か
(第56期中田哲哉さん)
印象に残っているのは、オープンキャンパス号や受験生応援号の配布です。他の号は教室や配布ポストに届けたり高校に発送したりと、読者と顔を合わせることはないのですが、この2号は読者に直接渡すことができ、反応を伺うことができたので新鮮な気持ちでした。また広告担当をしていたのですが、会社紹介の記事と合わせての広告出稿を提案して了承を得られた時は、自分の努力が認められたようでうれしかったですね。
(第59期石川拓音さん)
数年前に閉店された「萩や」という、八幡あたりにあった定食屋のご夫妻へのインタビューです。「うんうん」と個人的な納得感をもって初めて書くことができた記事です。なにかものを書く際には、今でも、心のよりどころにしています。
(第60期原中翔輝さん)
「ネタ記事」でやった松島までの徹夜ウォーキングは、いい思い出です。同期や先輩と歩きながら、歌ったり話したり…。日の出を松島で迎えるのを目標に歩みを進めましたが、わずかに届かず塩釜で夜明けを迎えました。それでも雲の隙間からのぞく太陽を拝んだときの景色は、いまも脳裏に焼き付いています。もっともこのときに話したことは、眠気もありほとんど覚えていませんが、30㎞以上を踏破したことで部員との仲が深まりました。
(第61期小松士恩さん)
この質問を見て、真っ先に思い浮かんだのは「歩いて松島行ってみた2020 〜名作過去記事に挑戦状〜」という、20年度12月号に掲載されたネタ記事です。具体的な内容はぜひ記事をご覧いただきたいのですが、この号は私が編集長として初めて制作したものであり、この記事は中学時代からの友人であるⅠ君が企画してくれたものです。当時は、新型コロナの影響で部活動への制限が少し緩和され、ようやく制限付きながら対面での活動が再開された時期だったと記憶しています。顔を合わせる機会が少なかった後輩たちが多く参加してくれたことや、元祖「歩いて松島」の参加者である先代編集長のH氏が激励に来てくれたことは、今でも強く印象に残っています。
今回、この寄稿を書くにあたり、直近数年のバックナンバーを読ませていただいたのですが、後輩たちが再び「歩いて松島」に挑戦していたことには驚かされました。また、20年度受験生応援号で私が「編集長、代わりに落ちる」と題して猿ヶ京バンジーを訪れた記事についても、23年度受験生応援号で後輩たちが同じ場所を訪れていたことを知り、思わず笑ってしまいました。
記事を通じて、過去の部員や未来の部員と接点を持てることは、報道部の活動ならではの魅力の一つです。
(第62期藤井千尋さん)
伊坂幸太郎さんへのインタビューです。東北大の卒業生であり、今では人気作家の伊坂さんですが、大学時代から作家としてうまくいっていたわけではなく、多くの悩みもあったと言います。将来に不安を抱え、失敗を恐れていた私ですが、それを聞いて「伊坂さんも同じ気持ちだったのか」とプレッシャーから解放された気分になりました。読者のみなさんも同じように勇気づけられたらいいなと思いながら記事を書きました。
(第64期鈴木舞優さん)
初めての取材です。報道部に入ったら絶対書きたいと思っていた、鳥人間コンテストの記事でした。ですが緊張してしまって取材中は沈黙が多くなり、一辺倒な質問しかできず悔しい思いをしました。一方で、それでも相手の方が生き生きと嬉しそうに話してくださったのが印象に残っています。それが私もうれしくて、その後の3年間で50人以上に取材するまでになりました。私に取材の難しさと楽しさを教えてくれた、原点となる取材です。
皆さんの大学生活に、学友会報道部という選択肢をぜひ検討してほしい。