【特集・東北大新聞史をひもとく】東北大学における学生新聞の概況
本紙が紙齢500号を迎えた。だが本学の学生新聞の歴史は本紙だけにとどまるわけではない。戦前に生まれた『東北帝大法文時報』『東北帝国大学新聞』、そして一時期併存していた二つの『東北大学新聞』の歴史を振り返る。 (渡辺湘悟)
=概要は1面=
戦前期 二紙創刊 数年で廃刊に
本学最初の学生新聞『東北帝大法文時報』は、1928年11月25日に創刊された。
創刊号に掲載された「創刊の辞」では、まず総合大学には「渾然融合したる統一体の一員としての意思、団体を構成員する組織員たるの自覚の存在」が必須だと説き、今の東北大は「徒に独善安逸を貪るの現状」だと訴えている。その上で新聞こそ統一的な意思を形成し他校との交渉に資する「偉大な存在」だと述べている。
ただ全学的な東北帝国大学新聞の発行は「予算、其他の行き懸り上未だ設立の運びに至らぬ」なか、その前提として法文時報が生まれた事は「不幸中の幸い」であると記されている。創刊当時から全学的な新聞になることが指向されていた。実際31号(1930年11月25日付)では、法文時報から東北帝国大学新聞に転化するための財政的基盤確保に向け新日本音楽大演奏会を開くという記事がある。
時報はおおよそ月1回の頻度で発行されており、学内ニュースに加え半分程度は教授の論文や学生、講師の寄稿が掲載されている。そのほかに論説や学生の投書欄もある。
学内ニュースには学友会の問題や不況下での就職難、当時行われていた北大定期戦など全学的な内容が取り上げられている。一方法文学部学友会である強立会の委員選挙への参加を呼びかける号外(1928年12月1日付)を出すなど、法文学部の機関紙的な役割も担っていたようである。
また40号(1931年7月25日)では、多くの記事に伏せ字がされている。これについて次号で「伏字問題について」と題した論説を展開している。学生の投稿が激増したことで「(時報編集)局は監督の当局から注意をうけなければならなかった」と語っている。
1932年の入学式宣誓事件を契機に強立会は解散し時報は廃刊となる。だが医学部と法文学部の学生たちを中心に全4学部から準備委員を集め総長宅で懇談するなど大学に働きかけ、1934年10月26日『東北帝国大学新聞』が創刊した。
ただこの新聞も2年後に廃刊となる。きっかけは14号(1937年7月20日)に掲載された「挙国一致」の記事が当時の新聞紙法に抵触したことである。本紙の系譜である新聞部発行『東北大学新聞』43号(1972年6月30日)にこの記事の一部が記されているが、当時の日本の好景気や盧溝橋事件に対する強い批判が書かれている。本来こういった記事は印刷する前に外されるはずだったが、編集責任者の学生が印刷所で記事をひそかに差し替えていた。
これを受けて大学側は、大学が直接関与できる形に組織を再編して新聞を発行させようとした。
しかし1938年2月、全国で社会主義者の学者らを大量検挙する人民戦線事件が起こり、大学新聞の学生編集委員6人も検挙された。これによって発行元の「東北帝国大学新聞会」は壊滅状態となり、1938年8月の28号をもって自然廃刊となった。
もう一つの東北大学新聞ー戦後1年で誕生、現在は休刊ー
終戦1年後の1946年6月5日、「東北学生新聞」が創刊する。当時部長を務めたのは、法文学部教授を務めていた中川善之助。川内キャンパスの本学附属図書館本館前にある中善並木の名前の由来となった人物である。
戦時中も本学で新聞を刊行する動きはあった。中川も、30年から46年の間に本学で総長を務めていた熊谷岱蔵や本多光太郎から新聞を発刊するよう言われたことは「二度三度ではなかった」という。しかし「軍のお先き棒をかつがない限り言論の自由も何もない時代」に新聞を作るのは無意味だと考え断っていたと、創刊3周年を迎えた際に回顧している。
当時は政府から新聞に使う紙の量が割り当てられていたため、東北六県下の各校のニュースも取り入れる条件が加えられた。そのため例えば2号(46年6月20日付)の「学園にも襲う食糧危機」には、東北帝大だけでなく宮城県の学校の、食糧不足による夏休みの対応が記されている。また山形市や弘前市の学校についても書かれている。
当時は本を手に入れることが難しく、論文を載せた方が学生に喜ばれた。4面構成の創刊号でも2面や3面は教授の論文や「科学界情報」として海外の雑誌から引用した最近の科学の動向を掲載している。
発行が進むと本学に関連した内容が増え、また学生運動の記述が増す。42号(48年2月5日付)では全国国立大学学生自治会連盟結成についての解説記事が掲載された。55年から65年にかけては学生運動がより盛り上がり政治色の強い記事が掲載されるようになった。
こうした中、66年7月の学友会総務部委員会で学友会新聞部の公選制が決議される。編集委員を選挙によって決める方針となったのである。
これに当時の「東北大学新聞会」は反発する。号外(1966年9月10日付)では「学友会機関紙化に反対」との見出しを掲げ「我々は学友会から離脱して組織的に独立する」と宣言し「東北大学新聞社」として『東北大学新聞』を発行するようになった。
新聞社側の『東北大学新聞』は、独立後も政治色の濃い内容が掲載されている。これは学生運動が停滞した1980年頃にも継続しており、宮城県内で行われた抗議活動などを報じている。一方「就職問題特集号」の発行や「受験生応援号」に高度経済成長を批判する前置きを書きながらも仙台市内の店を紹介するなど、より一般読者に向けた内容も掲載されるようになった。
その後新聞社側の「東北大学新聞」は1989年に休刊となり、再刊されることはなかった。
59年前に復刊1号 変化を重ねた東北大学新聞
1966年11月25日、公選された委員の手で東北大学新聞会から「通算419号を復刊第1号として」『東北大学新聞』が発刊された。
それ以前は学友会新聞部としての「東北大学新聞会」が『東北大学新聞』を発行していたが「かねてから学内ニュースが乏しく、一定の思想潮流の宣伝機関となっている」という評価が出されていた。これに加え「学友会総務部役員会での財政報告の不明瞭さなどが問題になり」学友会新聞部は改組されることになった。これに当時の「東北大学新聞会」は反発して「東北大学新聞社」として独立し『東北大学新聞』の発行を継続した。
一方公選された委員、すなわち選挙によって選ばれた学生たちにより組織された「東北大学新聞会」も『東北大学新聞』を発行し、学内に同名紙が併存する状態になった。この公選委員による「東北大学新聞会」は68年に「東北大学新聞部」に改称して発行、これが現在本紙を作る学友会報道部へとつながっていく。
「通算419号を復刊第1号として」という記述は、新聞社側が同年9月10日に学友会離脱を宣言した号外と419号を発行しており、公選された「東北大学新聞会」はこれを引き継いだ形とみられる。また「復刊」という記述は「夏休み以来休刊していた」からだとしている。
創刊当時は大学自治の問題やベトナム情勢など、学生運動と関係の深い記事が掲載された。一方で「大学と人」「人」という欄で本学の大学教授を紹介するなど、政治的なものから離れた内容も見受けられる。75年頃は特集「自治会運動を考える」(76年10月25日付)などで大学の自治会や自治会選挙を取り上げていた。
102号(78年11月15日付)から「構成のマンネリ化」を受け一般的な新聞のサイズであるタブロイド判から一回り小さいブランケット判へと移行する。この頃には「サークルのかお」というコーナーで各サークルの紹介も行っていた。
89年には住所の表記に「教養部サークル仮棟C-20」が加わり、川内にも部室が置かれた。現在川内サークル部室棟Ⅱがある場所である。この頃には紙面の政治色は薄まっていった。また同年9月から購読料金も無料になった。
93年には新聞発行が途切れがちになり、4か月間新聞発行が行われない期間が2回生じた。当時の編集長は後に「少数のやる気のある部員が卒業・引退した九十二年から」部の活動が著しく停滞し「九十三年には長期の発行停止に至った」としており「この時点で人は断絶している」と述べている。
97年には現在の部室に移り、2003年から紙面がタブロイド判となり部室が川内のみとなる。また見出しがよりポップになる。04年には学友会の大幅な会則見直しで名前が広報部へと変更になる予定だったが、05年報道部へと改称した。このころには研究成果やサークル、イベントの記事が紙面の大部分を占めるようになり、また最終面に部員が体を張る検証記事が掲載されるようになった。
コロナ禍を経た21年頃からは記事の見出しはよりシンプルなものになり、コロナ禍での学生生活や被災地の現状を伝える記事などが掲載された。
=次に続く=