読み込み中

赤べこ誕生の背景に迫る 発祥の地会津柳津へ

 

会津柳津駅観光駅長

赤べこの「やなぎまる」

「べこ」とは牛のことだ。


 福島県会津地方の山間に位置する柳津町は、郷土玩具「赤べこ」発祥の地として知られる。首をゆらゆらと揺らす愛らしい姿の誕生には、寺の建立を支えた牛の伝説や、疫病から子どもを守ったとされる伝承、さらには地域の歴史と人々の暮らしや信仰が深く結びついている。会津柳津観光物産協会への取材を通して、「赤べこ」誕生の背景や柳津町に息づく伝承、信仰をひもとく。


 柳津町の赤べこ伝説は、同町の福満虚空蔵菩薩圓藏寺の建立史と深い関係を持つ。圓藏寺は日本三大虚空蔵尊の一つに数えられ、開創は約1200年前までさかのぼる。その後、地震や洪水、火災によって再建を繰り返し、現在の本堂は江戸時代に建立された。

まだ雪の残る圓藏寺本堂


 寺の本尊である虚空蔵菩薩は、弘法大師(空海)が彫ったと伝えられる。唐での修行を終えた弘法大師は、霊木を三つに切って海へ投げ、それぞれが流れ着いた場所に虚空蔵菩薩を刻んだという。切り分けられた霊木の一つが柳津町にも流れ着き、それを村人が発見すると、弘法大師がその木で虚空蔵菩薩像を彫刻した。その際に出た木くずを只見川へ流したところ、ウグイという魚になったという伝承も残っている。ウグイは霊魚と信じられ、資源保護の観点もあり、只見川は現在禁漁区となっている。


 当初、寺は只見川沿いに位置していたため水害に遭いやすく、再建を繰り返していた。1611年には会津地方が大地震に見舞われ、寺も甚大な被害を受けた。その後の再建では、大岩の上に引き上げて建立されることとなったが、岩上への資材の運搬は困難を極め、人々は困り果てていた。


 そこで寺の副住職が、本尊の力を借りるため「赤べこ」の大絵馬を描き、七日七晩祈禱を続けた。すると「赤べこ」が絵馬から抜け出して裏山へ消えた。夜明けになると、「赤べこ」は牛の大群を連れて現れ、人々の資材運搬を手伝い、見事に寺を再建することができたという。完成が近付くと牛たちは姿を消し、「赤べこ」も人知れず元の絵馬に収まっていたと伝えられる。


 こうして生まれた「赤べこ」は、やがて子どもの玩具として発達していく。会津地方では冬になると豪雪によって屋外での仕事が難しくなるため、藩主が京都などから招いた職人の技術を基に、武士たちの冬の内職として張り子の「赤べこ」作りが普及し、郷土玩具として広まった。


 天然痘が大流行した際、「赤べこ」を持っていた子どもは病気が軽く済んだ、あるいはかからなかったという逸話がある。「赤べこ」の体にある黒と白の斑点は、「赤べこ」がその子の身代わりになった痕だともいわれており、疫病除けや幸運を招く縁起物としても愛されるようになった。


 柳津町は圓藏寺を中心に、虚空蔵菩薩信仰の町として栄えた。かつてはすれ違うことも難しいほどの参拝者でにぎわい、多くの宿坊が立ち並んでいたという。


 歴史上の人物との関わりも多く伝えられている。会津藩主・蒲生秀行はその1人で、柳津で毒もみ漁を行ったという記録が残っている。毒もみ漁とは、川に毒を流して魚を気絶させ、川面に浮かんできた魚を捕らえる漁法だ。毒もみ漁によって、霊魚のウグイは1匹も死ななかったと言い伝えられている。しかし、その翌年に1611年の会津地震が発生したため、殺生禁止の地を害した祟りではないかと恐れられた。


 秀行の夫人であり徳川家康の三女の振姫は、大坂の陣の折、高齢の父家康の無事帰還を願う。その祈願成就の御礼として圓藏寺の施主となっている。


 また、柳津町では虚空蔵菩薩への「十三詣り」が重要な風習として続いている。「十三詣り」とは、生まれ年の干支が再び巡ってきたことを祝う行事で、13歳になる子どもが虚空蔵菩薩に参拝するものだ。圓藏寺には新潟や山形などからも参拝者が多く訪れる。柳津町名物「あわまんじゅう」を土産として購入し、家族に分けて御利益を共有する習慣がある。


 災害を乗り越えてきた柳津の人々の記憶と祈りを今に伝える「赤べこ」は、新型コロナウイルス流行以降、再び注目を集めている。時代が移り変わっても、「赤べこ」は変わらず町の象徴として受け継がれ、訪れる人々に会津の歴史や文化、信仰を語り掛け続けている。 (高橋温)

圓藏寺境内の撫牛

ホーム item

報道部へ入部を希望する方へ

 報道部への入部は、多くの人に見られる文章を書いてみたい、メディアについて知りたい、多くの社会人の方と会ってみたい、楽しい仲間と巡り合いたい、どんな動機でも大丈夫です。ご連絡は、本ホームページやTwitterまでお寄せください。

Twitter

Random Posts