【特別インタビュー】ノーベル物理学賞受賞者 名古屋大学教授 天野浩氏
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―先生が名古屋大学で赤崎研究室を選んで青色LEDの研究をしようと思った理由は何ですか
コンピューターの発展に携わりたいと思っていました。当時はコンピューターの発展が凄く、人々の生活を完全に変えるような雰囲気がありました。マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスティーブ・ジョブズの二人が出てきてから、『これから世の中が変わるな』というのを実感しておりました。そんな中で自分がその中に携わりたい、役に立ちたいと思っていました。本当に一番やりたかったのはCPU系の研究だったのですが、それをやっている研究室が当時の名古屋大学にはありませんでした。そこでコンピューター周辺の装置、ディスプレイを研究してみたいと思いました。コンピューターが発展する中で、ディスプレイは重要なデバイスだと分かっていました。当時のディスプレイはブラウン管式で非常に大きなものだったので、それをもっとスマートにしたいという気持ちを持っていました。それで青色LEDをやってみたいと思いました。青色LEDが出来ればそれが実現できるに違いない、コンピューターの大きな進化の中でディスプレイに関しての発展の普及に役に立つんじゃないか、というのが、今から考えると根底にあったのかもしれません。
―研究の過程で1500回もの失敗を重ねたと伺いました。その時のモチベーションはどこから出ていましたか
コンピューターの発展に何か貢献したいというのが一番にありました。それにモチベーションを維持するというよりは、むしろ焦りでしたね。青色LEDが実現しさえすれば、コンピューターの利用が進んで、世の中がもっと変わるというのを当時からイメージとして持っておりました。これさえ出来れば絶対に世界が変わるのだから、誰かに先を越されないようにという感じでした。スタートした段階ではまだまだ下手だったのですが、2年間くらいずっと結晶を作っているとだんだん慣れてきて、あと少しで出来そうだというのが感覚的にわかってきたんです。
―赤﨑研究室は『不夜城』などと呼ばれて夜遅くまで明かりがついていたそうですが
夜は遅かったですけど、朝も遅かったので問題ないですね。じっくりと腰を据えてやっていました。
―東北大学の学生に向けて何か一言
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