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【復興の今】イチエフの座標、フクシマの道標 前編 ~福島第一原発に向かう~

 東日本大震災から7年。日常の営みを洗い去り絶望の波が押し寄せた東北は、新たな未来を作り出そうとしている。だが、東日本大震災は現在進行形の災害だといえる。その表象といえる出来事が、東京電力福島第一原子力発電所事故だろう。筆者は、河北新報社福島総局のご協力の下、報道部の部員として初めて福島第一原発(イチエフ)の構内に入ることができた。小紙で毎年この時期に連載する「復興の今」。今年は「イチエフの座標、フクシマの道標」と題し、福島第一原発視察のルポルタージュをお届けする。




 2月22日。筆者を含めた本学の学生3人は、河北新報社の記者とともに福島県へ向かった。筆者が同県に入るのは、2016年4月以来約1年10カ月ぶり。その時は、福島第一原発から10キロほど離れた富岡町やその南隣の楢葉町を訪れた。当時は富岡町が全町避難を余儀なくされており、荒れた家々をネズミが闊歩する「ゴーストタウン」と化していた。

 その間に帰宅困難区域を除いたエリアで避難指示が解除された。立ち入れる地域は片付けが進み、人々の営みもそこにはある。だからこそ、前回来た時より数も増えたであろう、低濃度の汚染土が詰まった「フレコンバッグ」の存在感が増しているように感じた。イチエフの中は一体――

 ほどなくして富岡町の東電旧エネルギー館に着いた。ここが原発視察の出発点だ。東電の職員からの説明を受け、手配されたバスに乗り込んだ。敷地内の広間では、重機が表土をえぐっていた。のぼりには「除染作業中」の文字。すぐ近くには災害公営住宅が立ち並ぶ。日常と放射線が背中を合わせる風景だった。

 バスは、沿道に簡素なバリケードが張り巡らされた帰宅困難区域を走り、福島第一原発のある大熊町へ入った。国道6号線から福島第一原発につながる一本道に入っても、原発の姿は森に隠れている。本当にこの先に「事故現場」はあるのだろうか。役立たぬ「学童に注意」の看板を車窓から見ながら、その先の風景に思いを巡らせた。

 一気に視界が開けるや否や、福島第一原発の入退域管理施設が見えた。張り詰めた空気の中で入域手続きを終え、案内されたのは大型休憩所。構内の視察を前に昼食をとった。

 福島第一原発構内に食堂ができたのは15年4月。法律上構内では簡単な調理しかできないため、町内に設置した給食センターから送られる料理が味わえる。1日1800食売れる料理の食材も福島県産にこだわる。

 人気なのが毎日2種類用意される日替わり定食だ。筆者が頼んだのはA定食。福島県産のご飯を主食に、おかずにはレバー料理と山菜のお浸しの2品だった。今もなお風評被害の影響を受けている福島県の農産品だが、食べてみると「福島以外」とおいしさは遜色ないことが分かる。値段も学食より安く、学食以上の満足感があった。

 食事の後、施設内を見渡した。食堂の隣の部屋には大手コンビニエンスストアのローソンがある。トイレも清掃が行き届いている。大型休憩所の一帯は、どこかの施設かなと見まがうほど環境が整えられていた。「事故現場」の姿はもはやなかった。

 管理棟近くの放射線量は毎時1・1㍃シーベルト。同じ大熊町でも、帰宅困難区域では毎時2・5㍃シーベルトであることを考えると、廃炉作業のための除染が進んでいた。どちらも健康被害を与えるほどの高い数値ではないが、帰宅困難区域の数値では、年間20ミリシーベルトを超え、世界平均の10倍となる被ばく量だ。原発にいる方が被ばくしない場所もある。この矛盾を受け入れるのには時間がかかった。

 職員から説明を受け、いよいよ原発構内に入る。視察の前に、入構に必要な装備を身につける。とはいっても、防護服にガスマスクといったまがまがしいものではない。普段着の上にベスト、ヘルメット、ゴーグル、軍手、靴下、防塵マスク、線量計。この装備で原子炉建屋内部以外はほとんど立ち入れるが、市販されるもので十分対応できそうなものばかりだ。こんな軽装で構内に足を踏み入れられることに驚きつつ、バスは惨禍を生んだ原子炉に向かい動き出した。

(この連載は3号続けて掲載。次号では1号機から4号機を中心に構内の様子をお届けする)
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