元本学総長・西澤潤一氏をしのんで ~「闘う研究者」の後ろ姿~
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元本学総長の西澤潤一氏が10月21日に仙台市内にて死去した。享年92歳。半導体の世界的権威としてPINダイオードや高輝度発光ダイオード(赤・黄・緑)、光ファイバーなど数々の発明、開発を進めた。「ミスター半導体」や「闘う研究者」との異名を持ち、独創性を貫いた研究で世界を導いてきた。
西澤氏は本学工学部の出身。1948年3月に卒業後、電気通信研究所の教授や所長を務め、90年に本学第17代総長に就任する。二期6年間にわたって「研究第一主義」を目指し、教養部改革や青葉山新キャンパス移転構想などの改革を推進した。総長退官後も98年から岩手県立大、2005年から首都大学東京の初代学長を歴任している。
ノーベル賞候補とされつつ受賞はかなわなかったものの、1989年には文化勲章、2000年には世界最大の学会とされる、米国電気電子学会(IEEE)の「エジソンメダル」を受賞した。また、IEEEは02年にグラハム・ベルやトーマス・エジソンなど歴史的な科学者の名前にちなんだ賞の一つに「ニシザワ・メダル」を加えている。
小紙では1993年の12月号にて西澤氏にインタビュー取材を行っている。同氏は、当時の学生が教官との関係性の中で権威主義に陥り、教わったことに対して何の問題意識も持たず、ただただ講義を受動的に聞くだけになっている状況を問題視している。
そうした状況を改善するためにも西澤氏は「人間教育」の場を目指し大学の改革に取り組んでいたわけだが、この指摘を振り返って現在の状況はどうだろう。日々漫然とした態度で過ごしてしまっていないだろうか。自発的な学びができているだろうか。
西澤氏は若い頃、数々の輝かしい研究成果を上げたにもかかわらず、その若さゆえ学会や世間からの風当たりが強く、なかなか功績が認められなかった。しかし、そうした逆境に負けることなく、精力的に研究に取り組み、次々に偉業を成し遂げていった。これが、同氏が「闘う研究者」と呼ばれるゆえんである。今同じ東北大で学ぶ身として、インタビュー時の西澤氏の言葉で心に留め置きたいものがある。「堂々と自分が正しいと思うものをつかみ取れ」
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元東北大学総長 故 西澤潤一先生の追悼の会が、2018年12月16日に挙行されます。詳しくはこちらをご覧ください。
西澤氏は本学工学部の出身。1948年3月に卒業後、電気通信研究所の教授や所長を務め、90年に本学第17代総長に就任する。二期6年間にわたって「研究第一主義」を目指し、教養部改革や青葉山新キャンパス移転構想などの改革を推進した。総長退官後も98年から岩手県立大、2005年から首都大学東京の初代学長を歴任している。
ノーベル賞候補とされつつ受賞はかなわなかったものの、1989年には文化勲章、2000年には世界最大の学会とされる、米国電気電子学会(IEEE)の「エジソンメダル」を受賞した。また、IEEEは02年にグラハム・ベルやトーマス・エジソンなど歴史的な科学者の名前にちなんだ賞の一つに「ニシザワ・メダル」を加えている。
小紙では1993年の12月号にて西澤氏にインタビュー取材を行っている。同氏は、当時の学生が教官との関係性の中で権威主義に陥り、教わったことに対して何の問題意識も持たず、ただただ講義を受動的に聞くだけになっている状況を問題視している。
そうした状況を改善するためにも西澤氏は「人間教育」の場を目指し大学の改革に取り組んでいたわけだが、この指摘を振り返って現在の状況はどうだろう。日々漫然とした態度で過ごしてしまっていないだろうか。自発的な学びができているだろうか。
西澤氏は若い頃、数々の輝かしい研究成果を上げたにもかかわらず、その若さゆえ学会や世間からの風当たりが強く、なかなか功績が認められなかった。しかし、そうした逆境に負けることなく、精力的に研究に取り組み、次々に偉業を成し遂げていった。これが、同氏が「闘う研究者」と呼ばれるゆえんである。今同じ東北大で学ぶ身として、インタビュー時の西澤氏の言葉で心に留め置きたいものがある。「堂々と自分が正しいと思うものをつかみ取れ」
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元東北大学総長 故 西澤潤一先生の追悼の会が、2018年12月16日に挙行されます。詳しくはこちらをご覧ください。