【連載】あの日を訪ねて⑧最終回 河北新報社 ~災害報道 生きた証に~
「一生、十字架を背負ったと思っています」。河北新報報道部の高橋鉄男さん(46)は、東日本大震災直前に自身が書いた記事を振り返り、こう語った。東日本大震災の2日前、三陸沖を震源とする震度5強の地震が宮城県北部で観測された。高橋さんは専門家に取材し、「今後宮城県沖地震がより強い地震になる危険性は低くなった」との記事を執筆した。
記事が朝刊に掲載されたのは2011年3月10日、東日本大震災の前日だった。当時高橋さんは地震についての記事を書いた経験が乏しく、専門的な知識も少なかった。地震の規模を軽視する情報を発信する危険性を、見極められなかったと悔やむ。「不勉強なまま記事を書く無責任さを痛感した。記事を出したのは記者である私の責任。10年経った今でも、いたたまれない気持ちになる」と語る。
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東日本大震災が起こった時、取材を終え、東京から仙台へ帰る新幹線に乗車していた。脱線しそうなほど大きな揺れに見舞われ、その日は栃木県の小学校で夜を明かした。宮城県の被害が気にかかり、大変なときに仙台にいることができない自分が、役立たずだと感じた。前日に誤った記事を出してしまったことで、生きていられないほどの後悔も味わった。
仙台に帰った後、3月14日から現地取材を始めた。気仙沼取材班に振り分けられ、総局に到着し最初に目にしたのは、2人の男性の遺体だった。雨をよけるため、一時的に近くにあった総局に運び込まれたのだった。棺代わりとなっていた魚市場の木箱は、亡くなった男性の一人が最初に気仙沼に来たときに働いていた、魚問屋のものだと遺族から聞かされた。津波で破壊された街や泣き崩れる遺族を目にし、「これは過酷な取材になる」と覚悟したと振り返る。
取材の拠点も被災していたため、泊まることはできなかった。仙台から車で2時間半かけて気仙沼まで行き、帰りの車中で記事を書く日が続いた。
震災4日後。 被災した気仙沼市内はがれきが散乱していた。 (河北新報社提供) |
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被災地の状況や遺族への取材を進めるうちに、同僚が遺族から言われた言葉が印象に残っている。「マスコミは、身内の犠牲が多く悲しみが大きい人ほどセンセーショナルに取り上げる。それでいいのか」。その言葉にハッとさせられた。「遺族の悲しみが売り物のように扱われてはいけない」と再認識した。
遺族取材の意義は「社会で悲しみを共有し、同じ悲劇が繰り返されないよう、人々に防災意識を広めること」と高橋さんは語る。報道は遺族にとって亡くした身内の生きた証しとなるとともに、他の人が自分の家族の命を守ることにつながると考えている。
「被災は特別なことではない。東北大にも経験した学生がいると思う」と語る高橋さんは、本学の卒業生だ。本学の学生に「身の回りの被災者にも思いをはせ、寄り添う人間になってほしい」とメッセージを送った。