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【連載】「あの日」を訪ねて ⑤航空自衛隊 松島基地 ~震災翌日から支援~

 2011年3月11日午後2時46分、航空自衛隊員の大竹慎一さんは、立っていられなくなるほどの強い揺れを感じ、避難経路を確保するため、真っ先に事務室入り口のドアを開けた。航空自衛隊松島基地で翌日のフライトに向け、飛行機の整備作業をしている最中だった。縦横に大きく揺さぶられ、駐められた飛行機の翼が地面にたたきつけられそうなほどだった。「津波が来るのでは」。長い揺れが収まると、不穏な予想が頭をよぎった。



 他の隊員と共に、3階建ての建物の屋上に避難する。1時間後、真っ黒い塊となって津波が押し寄せてきた。波に飲まれた車が、発泡スチロールのように海面を漂う。ひとしきりクラクションやブザーが鳴った後、あたりには静寂が訪れた。浮かび上がった車同士がガシャガシャとぶつかり合う音だけが不気味に響く。自分にはどうすることもできない状況を目の当たりにし、経験したことがないほどの恐怖を感じた。


 基地は2メートルの高さまで浸水した。津波によって一機残らず無残な姿と成り果てた飛行機を見て、言葉を失った。


 震災の次の日から、基地内外の復旧作業に当たった。基地に隣接する道路は、流れ着いた車であふれかえっていた。救助や避難に使う道路を確保するため、数人がかりで一台ずつ車を空き地まで運んだ。その間も、安否の分からない自分の家族が気にかかる。「どうか無事で」と祈る気持ちをはやらせていた。


 基地外に流れ出たものを回収しながら、倒れた民家の家具を戻し、浸水した部屋の畳を剥がした。電気や水道は止まり、大きな余震の度に避難していたため、なかなか作業は進まない。近くの用水路から水を汲む生活が続いた。中でも辛かったのは、復旧作業をする中で、移動手段が徒歩に限られたことだった。


 基地近くの住民は、被災した基地のことも気遣ってくれた。ありがたいと思うと同時に、住民に頼られていることに自衛官としての存在価値を感じた。


 市民生活の復旧は、その年の夏頃までかかった。松島基地で全ての飛行訓練が再開されたのは、震災から5年後のことだった。


 現在松島基地では、東日本大震災を教訓に、飛行機を駐める場所や電源設備を高台へと移し、次の災害の対策を講じている。

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