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【とんぺー生の夏休み2021】最優秀賞 『花火の音が聞こえる』 橋本京

 なにかのスイッチが切れたかのようにすとんと気温が落ちて寝巻が迷いなく長袖に切り替えられ、同時に少年少女の夏休みの残りぜんぶと期間が重なる緊急事態宣言が宮城県に出て、夏が音を立てて終わった。いまはお盆で、だけど私は実家には帰れなくて、仙台のアパートにいる。辛子色の古いカーディガンを羽織って、茹でた素麺をぬるいまま皿に盛って、食べている。


 ことしは、夏が始まった日のことも、よく憶えている。


 六月の中ごろ、友人のYくんがうちに来た。玄関の戸を開けると扇子を手に持ったYくんが額に汗を浮かべて立っていたものだから、部屋に通して、ことし初めて冷房を入れた。Yくんは実家から送られてきたという蕎麦を、お裾分けしに来てくれたのだった。私は用意していた李と水羊羹を出して、ふたりでそれを食べた。ふたりで食べつつ、夏の始まり、と私はひとりで思った。


 ぽつり、ぽつりと、互いにあれこれを喋った。最近のこと、生活のこと、進路のこと。会うのは久しぶりだったのだけれど、いや、久しぶりだったからか、互いに人との喋り方を忘れてしまったみたいに、ぎこちない報告をし合った。会話の合間の沈黙がだんだんと延び、空調の腑抜けた音が耳につくようになって、「トランプでもやる?」と切り出すタイミングを私が窺っていたところで「じゃ、そろそろ」とYくんが言った。


 帰り支度を始めたYくんに私は、「この夏はなにかするの?」と尋ねた。Yくんは、山に登ると答えた。


「山? 鳥海山とか?」


「いや、月山」


「がっさん! がっさんって、月、に山、の月山?」


「そう、その月山」


「月山」


 へぇ、おれも一緒にいきたいな、と軽い気持ちで言ってみようかと思ったけれど、憚った。彼はきっと、ひとりで山に登るんだなと、そう思った。月山かー、月山月山、とただ間抜けな調子で呟いていると、こんどは私の予定を尋ねられた。私は北陸にゆくと答えた。


「北陸? 北陸のどこ?」


「福井県、の、越前市」


「へぇ、なにしに?」


「和紙工房を、見にいく」


「和紙か。いいね」


 Yくんも、一緒にゆきたいなどと言うことはなかった。


 「もしかしたらそこで就職するかも」と私は半ば戯れに、半ば本気で、付け加えた。


 「あー職人かー」とYくんは言った。




 私は来年の春に大学を卒業するつもりで、同時に就職をするつもりでもいて、それでその口を探していた。みんな幾つくらいの会社の募集に応募するものなのかしら、と調べてみると昨年の平均エントリー数は二十社程度、という情報を目にしたから、私は春先に十八の会社に応募した。Yくんがやってきた日には、しかしそのほとんどの会社から既に採用見送りの通知をもらっていて、選考が進んでいた会社もその後、ぜんぶ落ちた。


 生まれながらの呑気だから、ひどく身にこたえるということはなかったけれど、なんだか偽物の世界にいるような不安があった。部屋から一歩も出ないのにスーツを着てネクタイを締め、画面の中に平面に並んだ人たちと面接をして、そして数日後には「縁がなかった」人同士になった。そう、いちばん恐ろしかったのは、クリックひとつで忽ち目の前から消えてしまう人しか、(就活生としての私の)世界にいなかったということだ。


 私は三年次の春から対面の授業をひとつもとっていなくて、だから教室でたまたま居合わせた誰かに「ねぇしゅーかつどんな感じ?」と水を向けて情報を得たり不安を吐露したりすることはかなわなかった。たしかに、私は入学年に恵まれていて一、二年次に築いた小さな友人関係があったから、ラインなりなんなりで能動的にアクセスすればあるいは恣意的な誰かと「つながる」ことはできたかもしれない。けれども、そういうことでは、ないんである。


 私は、ただの他人が、周りにいてほしいのだった。とくに関係性を説明できるわけでもない、それこそきょうたまたま同じ教室で同じ授業受けてたみたいな、そういう人たちの中に、いたいのだった。ネットニュースは「〇月〇日時点の二十二年度卒内定率は〇〇%」とかいってご丁寧に具体的な数字を掲げて私を煽ってきたけれど、違うんである。私はキャンパスで十人十色いろんな進路を前にした人たちに触れて、なんとなく自分の位置をつかみたかったのだ。


 ところで私はそんな偽物みたいな世界にあって、小説ばかり読むようになった。本を開けば、そこにはただの他人が大勢いたから。ハードカバーの本もたくさん買うようになって、置き場所に困り小さな模様替えを強いられた。それでも構わなかった。模様替えをする時間も、本を読む時間も、かなしいくらいにたくさんあった。




 私が巣ごもりをしているあいだにもきちんと季節は移ろい、夏は深まっていった。私が学生を名乗っていられる時間も、そうして静かに消耗しているのだった。私は採用募集をつづけていた三つの企業に応募してみた。これでどこにもひっかからなかったらまじで夏休みを使って和紙職人に弟子入りしよう。私は夏の初めに手に入れた和紙見本帳を眺めながら、ぼんやり考えていた。


 いままで経験したことのない速さで本が増えてゆく。私はひとつの季節に郵便配達員、銭湯の跡継ぎ、鳶職、女性宇宙飛行士、ラーメン屋の店主、喫茶店の店主、ホームレス、外交官、美術教師、帽子職人、出版社への就職を目指す大学生、親の金で暮らす三十路男に、紙の上で新たに出会った。一方これといった肩書のない私は、前日をそのままコピーしたみたいな日々をえんえん繰り返していた。爪が伸びたら爪を切り、日が照ったら洗濯物を干した。


 そうこうしているあいだに世界のありさまはみるみる変わる。紛うことなき夏というような陽気がつづくころになると、ネットニュース上ではオリンピックの話題が少しずつ目立って出てくるようになった。そしてその中の、あるひとつの記事が、私の胸に引っかかった。


 それは、ひとりのウガンダ人選手が、日本で仕事を探す旨の書置きを残して合宿所を抜け出したという記事だった。


 私はその記事を、冷房の効いた部屋で寝そべりながら、手元の小さな画面で見ていた。まぁ、他人事だった。現場は遠い場所だったし、それに選手の出身国であるウガンダなんて、目の前に世界地図を出されてもここですと指さすことさえできなかった。そしてそれは、おそらく他の多くの人にとっても同じなのだった。日本人最年少金メダリストが誕生しました、東京都の一日のコロナ感染者数が五千人を上回りました、日本が過去最多のメダルを獲得しました、どこそこの市長が他人のメダルを口に入れました。ウガンダ人選手のニュースはそんな次から次に出てくる、より大勢にとって切実な、極彩色のニュースに塗り込められ、埋もれていった。


 それでも、くだんのウガンダ人選手をすっかり忘れてしまうことは、なぜだか私にはできなかった。いつもはニュースなんて目に入ってくるものを拾い読みするだけなのに、私はわざわざ検索をかけて、彼を追いかけていた。


 彼は、来日してから五輪の出場資格を失って、たぶんだけど選手としての望みとかゆき場がすっかりなくなってしまったみたいになって、それで絶望のただ中にいた。


 彼は、ほんの少しの食料となけなしのお金を持って、たぶんだけどなにかを託すみたいにして、もしくは脱ぎ捨てるみたいにして短いメッセージをしたためて書置きし、たったひとりでホテルをあとにした。


 彼は、名古屋にはトヨタがあるという情報を得て、たぶんだけどそのことを、そのことだけをお守りみたいに両手に握りしめて、光さす方へとばかりに名古屋方面の切符を買い、着のみ着のまま大阪を抜け出した。


 彼は、たびたび借金をするほどアスリートとしての生活に困っていて、そのうえ彼には、第一子を妊娠した妻がいた。


 そして彼は、私より若かった。


 私はいつのまにか彼のことを、心のどこかで応援しているみたいだった。自分はこうして募集を掛けている企業に応募してそれでもたくさんの会社に落とされているというのにこの人は名古屋にいって具体的になにをするつもりだったのだろう、とか思いながらも、彼を日本人選手そっちのけで応援していた。


 数日後、彼は発見されたのちに大使館に連れてゆかれて、半ば強制的に帰国させられた。私は三つの企業のうちのひとつから内定をもらって、そこで働くことに決めてしまった。




 仙台のアパートでひとり、グーグルマップを開いて越前市を眺める。けっきょく、道場破りみたいにして越前にいって和紙職人の門下に入る計画は机上で膨らんだだけで終わった。


 なぜなら、私は、内定を得ている世界線にいるから。


 そう、ほとんど「縁」という言葉でしか説明できないような感じで内定を得て、私のひとつしかない体は、もうそっちの人生コースに流れはじめていた。だからいま私は和紙職人見習いでもなんでもなく、銭湯の跡継ぎでもなく帽子職人でもなく、ましてやウガンダ生まれのアスリートでもなかった。自分より年下で妻子もあって重量挙げに打ち込む人の人生を画面越しに覗きながら、私は数か月後に事務のお兄さんになる身で、学生生活最後の夏を、生きていた。


 七夕まつりの前夜、そんな身でだらだらしていると花火の音がし始めた。窓を開けてみたのだけれども見えず、外に出て少し歩いてみたのだけれどそれでもやはり見えなかった。近所の一軒家ではベランダで母子が、「見えないねぇ」と言い合っていた。


 見えないねぇ、ほんとに。


 花火も、リモート授業を共に受けるだけの友人の顔も、そこら中に飛んでいるはずのコロナウイルスも、自分の将来も、見えないものづくしだった。それでも、どこかで花火は鳴っていた。ウガンダ人選手は(苦しいかもしれないけれど)いまも世界のどこかで生きていて、卒業後の自分もなんだかんだできっとよく働いているのだった。どーん、どーん、と見えないところで彩りを放ちながら、花火は鳴りつづけていた。



◇ ◇ ◇



◎作者・橋本京さん コメント


 こんどはエッセイを書きました。テーマのひとつに就活という通過儀礼があったから、この文章は自分の人生の一部の記録というか証のようなものにもなりうるだろうし、あるいはこれから就活を迎える学生の励みにもなるかもしれません。でも、そういうつもりで書いたわけではないんです。これを読んでくださった私となんの関わりもない人が、仙台で花火が鳴っていたころに自分がなにをしていたか思い出したりして、見えないところで自分の人生と他人の人生がほんの少し重なり合うような感じを抱いてくれたとしたら、それがなにより。それだけで私はうれしいのであります。

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