【とんぺー生の夏休み2021】優秀賞 『君トレイン』 磯崎良
「とんぺー生の夏休み2021」にて、優秀賞を受賞したのは磯崎良さんの小説『君トレイン』。以下、作品の全文を掲載する。
◇ ◇ ◇
車窓に映る外の景色はすっかり夏の装いだった。真っ青な空の一番遠くに、入道雲の白い峰がそびえている。住宅の屋根は眩く陽に照って、時折通る踏切では待つ人誰もが半袖姿だ。
「夏だねー」早苗が言う。
「夏だね」私は答える。
「もうみんな衣替えしたかな?」
「多分ね」
「結は夏、好き?」
「夏は好き。暑いのは嫌い」
「クールだねえ」
よく分からない評を述べて、早苗は唸る。
「夏といえば……夏祭り! わたし屋台の出店って大好きなんだよねえ。射的やってチョコバナナ食べて、食べるといえばやっぱスイカとかアイスとか、あーあとスイカのアイスも食べなきゃ! それで海とか映画とか――」
「早苗」
その言葉を遮って、私は言う。
「早苗はそれで、辛くなったり、しない?」
早苗の言葉が途切れる。この言い方じゃ誤解を招きかねないと気付いたとき、既に早苗は「ごめん」と言葉を漏らしていた。
「違うの!」私は慌てて首を横に振る。「そういう意味で言ったんじゃないの」
「うん」早苗が頷く。「……分かるよ」
ぎこちない間と共に沈黙が訪れる。私は再び窓の外へと視線を向けた。電車は絶えずがたがたと、一定のリズムを刻みつつ進んでいく。
どこへ? いつまで? 誰にも分からない。
冷房の効いた車内で、私も早苗も同じくブレザー姿だった。四月の中旬に乗車して以来、もう長らく私たちはこの電車に揺られている。
かれこれ三ヶ月の間。
怖い話や怪談において、電車は度々私たちを異界へ連れていくものとして登場する。でもこの場合は電車そのものが異界と言えた。
この電車の中で私たちは、何かが欠けるということがなかった。お腹も減らないし喉も渇かない。スマホの充電も健在だ。その代わり、与えられた自由もこの電車一本分しかない。
窓の外では景色が絶えず流れ、そしてどこまでも続いている。日本はおろか世界中どこを探しても、こんなに長い線路などあるはずがない。しかしこの窓は都市や田園や踏切の遮断機や、あらゆる風景を映し出した。けれど私たちは指一本たりとも、外の世界に触れることは叶わなかった。
無論最初は焦った。放課後、早苗と一緒に帰ろうと二人で乗った電車が全く止まらない。乗り間違えたはずはなかったし、外に連絡しても繋がらない。運転席に声をかけても返事はなく、ただ静かな闇が詰まっていた。私たちの他にも何人かこの電車に乗り込んでいて、普段電車の乗客同士なんて言葉を交わす方が稀だけど、今回ばかりはそれどころじゃない。状況を確認し、脱出を試み、そして挫折する。そのうちネットやSNSの情報がある時点から一切更新されていないことに誰かが気付いた。そこで私たちは、自分たちが超常的な何かに巻き込まれたのを悟る。
その後の経過は敢えて詳しく語ることもないかと思う。現状が認められず、段々怒りが湧いてきて、それも無駄と悟ると神にでも祈るような気持ちになってくる。そのうち気分が沈んでくるのだけど、その段階さえも超えて今の私たちがある。それはいずれは万事何とかなるだろうし、この生活も慣れれば案外悪くないのではという、希望にも似た諦念の段階だった。私たちは半ば、自らの状況を受け入れ始めていた。そんな中で早苗が偶然私と一緒だったのは幸運だった――早苗の立場を考えなければの話だけど。
親しい相手が傍にいると大変に心強い。時間はひたすら有り余っていたけど、私たちの間に話題の尽きることはなかった。更新されないネットに飽き、手慰みに始めた教科書の予習も終えてしまうと、私たちはただ話し続けた。あるいは一つの沈黙に心を傾けた。それが私たちの新しい生活の様式となった。
やがて外の空気が桜に染まる。群青の空に鯉のぼりが泳ぎ出し、梅雨の雨が地上を濡らし始める。しかし私たちのいる電車の中は、冷暖房や照明器具の類により、恒常的な環境を維持し続けていた。それだけに自分の五感が以前と変わらず機能しているか不安になってくる。視覚や触覚はともかく、私はこの三ヶ月間、ほとんど匂いというものに触れていない。草や土や雨の匂い、あるいは食べ物や飲料の匂い。意識していなかっただけで、本当は外の世界は匂いで溢れていたはずなのだ。
嗅覚。それと味覚。いつかこの電車が止まったとき、果たして私たちは正常な五感と共に外の世界へ戻れるのだろうか?
「あ! 何か今すっごいグリーンカレー食べたい!!」
……特に早苗に関しては、そうであることを祈る。
「散歩行こうよ」
「散歩?」
「そう!」
とある昼下がり。早苗の提案は唐突だった。
私たちが普段生活しているのは最前列、運転席のある車両だ。こんな状況では敢えて車両を移動する意味もなく、自然と一つの車両に腰が落ち着く。
「気分転換にさ。たまにはよくなーい?」
早苗の提案に特に意義は感じられない。でも断る理由も別になかった。どうせ時間も体力も有り余っている。
「まあ、たまにはいいかもね」
「でしょー?」
早苗が満足げに頷く。
「それじゃあ行こう。わたしが隊長ね」
「隊っていうかペアだけど」
「それで結が班長なの」
「めちゃくちゃだ」
鞄を持って私たちは立ち上がる。貫通扉一枚隔てた向こう側は、既に未知の世界だった。
早苗の後について私は、いくつもの車両を通過していく。それぞれの車両にはそれぞれの空気が存在していた。閉じられた世界では人はグループを作り、一つの場所に集合し、そして場に固有の空気感を生み出すらしい。私は度々よその家に踏み込んでるような気分になるけれど、早苗は臆することなくすいすい進んでいく。
「……あれ」
ふと早苗が、開かれたドアの前で足を止めた。私もぴんと急停止して、すぐにその理由を知る。
次の車両は無人だった。まるで人がいない。空っぽの空間で無数の吊り革がただ揺られている。
私一人だったらまず引き返すだろうけど、早苗は違った。中へ踏み入る早苗を追って、私も奥へ歩み出る。不吉な予感が胸を打った。
「早苗」私はその背を呼び止める。「もう戻った方が……」
「誰かいる、気がする」早苗は足を止めない。「ここの向こう」
「誰かって……?」
「分かんない」
既に早苗は貫通扉の取っ手に手をかけていた。私はせめてと思って、早苗の横に立って、その景色を見た。
向こう側の景色を。
電車内部。左右に向かい合った座席と、その上部に揺れる吊り革。窓に映る景色はやはり絶えず過ぎ去っていく。けれど無機質な光沢を放っているはずの床には、ベージュのカーペットが隅々まで草花の模様を広げていて、座席の片側には毛布や枕が乱れたまま放置されている。勉強机や本棚やローテーブル、家具も一通り揃っていて。
そこには人の生活があった。
友だちの家に上がったときのような、他人の生活の匂いが場に立ちこめていた。
いや。注目すべきはそこではない。ちょうど車両の中央部、左側の座席。本を片手にスマホから伸びるイヤホンを、耳にはめようとしていたその子。
恐らく私たちと同年代の、短い黒髪の女の子。
私はその人を知らない。見覚えもない。この閉じられた電車の中で。
「誰……え?」
私たちと同様、相手は困惑していた。動きを止めたまま強張った顔で、こちらを呆然と眺めていた。
「……っていうか……」
不意にその子が立ち上がり、私たちはのけ反る。
「この部屋、外、あったんですか!?」
真っ暗闇。強い風の音。――電車がトンネルに入ったのだ。でもどうして暗いのか、照明は点いているはずなのに? ――
トンネルを抜けた。視界に光が差す。
そこは何の変哲もない、ただの車両内部だった。座席に座った見知った顔の人々が、何事かと私たちを見ている。しかし私たちは、しばらくその場に固まっていた。
私たちが今見たものは?
その日、私たちがそれについて言葉を交わすことはなかった。翌日も敢えて話題に出すことはなかった。そして私たちは、元の生活へと戻っていった。
――元の生活と言っても。
あくまで電車の中のだけれど。
日差しが熱い。それがこの電車の中で感じられる数少ない夏の証だった。
「やっぱドリンクバーは欲しいよねえ」
「それいる?」
「いるよ!」
「電車にドリンクバーって無駄なような……」
「無駄のない人生は不完全なんだよ」
格言めいたことを早苗は得意気に言う。私たちは今、『これからの電車につけておきたい設備』という無駄話の極地みたいな話をしていた。かくいう私もこんな特異な体験の最中にあると、もっと電車という存在に余裕を持たせておくべきような気がしてくる。
「熱帯魚の水槽も置いとこうよ」
「それはちょっと、いいかも」
「でしょー!?」
早苗が無邪気に笑う。それから、ふっと息をついた。一瞬の間を置いて、早苗は口を開く。
「……あの子はさ」
あの子。
短い黒髪の女の子。
「夏祭りとか、海とか……夏っていう季節、知ってるのかな」
「……さあ。でもあの感じだと、多分……」
うん、と早苗は頷いた。その時初めて私たちは、恐る恐るではあるけれど、あの子の存在に触れた。
「……じゃ、これからの電車には金魚すくいを置こう」出し抜けに早苗は言った。「魚の水槽も兼ねて」
「早苗は何でも一つにまとめすぎ」
早苗は笑った。私も笑った。そこで話は一段落したみたいで、がたがたという走行音が心地よい沈黙のリズムを刻みだす。
「でも」と不意に早苗は言った。「今回は、それで良かったなって、思うの」
「今回って?」
「こんな状況に放り込まれるなんて、全然考えもしなかったけど。でも、それでも私が一人じゃなくて、結も一緒だったっていうのは……」
早苗は口をつぐむ。どうして言葉が途切れたのか、私は多分知っている。
「分かるよ。私も、早苗が一緒で本当に良かったと思う」
「ほんと?」
「ほんと。だから、」
窓の景色が、移ろっていく。
「もう少しさ。こうしてようよ」
この電車はどこへ行くのか、いつ止まるのか誰も知らない。ただどこかへ進んでいく。
それに乗っている私たちも、どこかへ向かって進んでいく。
私たちも、進んでいくのだ。