【連載】「あの日」を訪ねて ⑥東松島市 ~消えない痕跡 未来への歩み~
奥松島の玄関口である東松島市は、かつて観光資源に恵まれた豊かな土地だった。しかし2011年3月11日、東日本大震災によって大きな被害を受けた。震災被害の記憶を風化させないために、同市は16年、津波に飲まれたJR旧野蒜駅舎を東松島市震災復興伝承館に改修。同施設を含む震災関連の施設を東松島市東日本大震災復興祈念公園として整備した。
公園内には今も旧野蒜駅のプラットホーム=写真=が震災当時の姿のまま、公開されている。線路は歪み、アスファルトは至るところが割れている。かろうじてぶら下がっている樋や、支える屋根のない柱が津波の大きさを想像させる。
JR野蒜駅は震災後、より内陸へ移設されたため、このプラットホームには二度と電車が来ることがない。人を迎える役目を終えた旧野蒜駅は、現在震災遺構として人々に地震の恐ろしさを伝えている。
その隣は復興祈念広場。震災で亡くなった方々の芳名板が安置され、来場者が祈りを捧げるための空間となっている。広場に立つ波模様が描かれたモニュメントの高さは3・7メートル。旧野蒜駅に到達した津波の高さと同じだ。
続いて、東松島市復興伝承館の内部へ。2階は被災当時の様子を伝える映像、遺物などが展示されている。映像に記録されているのは、自動車や家屋が容易に流される様子、そして家族を亡くした被災者の後悔の声。「あの時もっと強く家に戻るなと説得していたら……。」男性は何があっても自宅に戻るなという教訓を後世に伝える。
東松島市立野蒜小学校で使われていた時計も展示品の一つ。時刻は2時47分。震災発生時に止まったままなのだろう。他にも旧野蒜駅で使用された券売機が展示されている。側面が湾曲し、タッチパネルがはずれている。券売機上部まで付いた泥が津波の高さを思わせる。
1階は昨年新たにリニューアルして作られたブース。安部晋三首相(当時)の被災地来訪、慰霊祭、航空自衛隊松島基地航空祭の復活、東京オリンピックの聖火到着式典など、同市の歩みを写真で振り返ることができる。
暗室に入るとチラシや新聞紙で作られた折り鶴がケースの中でライトアップされている。展示物の名前は「千分の一羽鶴 東松島 2020」。復興応援品として送られてきた千羽鶴と新たに折られた鶴がガラスに封入されたアート作品だ。1階には、復興への希望と同時に、支援者への感謝が込められていた。
同市は現在、SDGs未来都市として、全世代にとって住みやすい町を目指し復興の取り組みを続けている。合言葉はBuild Back Better。東松島市震災復興伝承館はこれからもそのシンボルであり続ける。