江戸時代の地図で街歩き 400年の歴史をたどって
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 スマートフォンの地図アプリを閉じ、代わりに広げたのは江戸時代の仙台城下絵図。直線とシンプルな色使いだけで描かれた古地図を頼りに、仙台の街に息づく過去の記憶を探る。
 
 本学大学院文学研究科・東洋日本美術史研究室の杉本欣久教授によると、戦災などの影響で仙台は他の都市に比べて古い痕跡が少ないという。しかし、それでも古地図を使って街を歩くことには意味があると語る。
 「当時の地図と現在の街並みを照らし合わせると、メインストリートの変化や古い痕跡を見つけられる。そこから昔と今の街の違いを感じたり、当時の人々の暮らしや信仰を想像したりできるのです」と杉本教授は話す。これまで拡張整備を経てはいるが、普段利用している道路やインフラは、伊達政宗が築いた400年前の基盤の上に成り立っているという。「先人たちの努力のおかげで今の私たちの生活があるのだと実感し、そのありがたみを感じることができるでしょう」
 杉本教授の言葉に背中を押され、我々報道部も実際に古地図を片手に街へ歩み出した。使用するのは江戸中期1789年の仙台城下絵図。ルートは、本学川内キャンパスを出発し大橋を渡って大町通を進む。そこから芭蕉の辻を左折し、国分町通を北上して青葉神社を目指す。
  地図を眺めると、川内キャンパスの辺りはかつて仙台城二の丸であったことが分かる。その痕跡はほとんど残っていないが、唯一、大手門北側の土塀だけが戦災や震災を乗り越えて現存している。かすかな塀の名残を横目に、大手門跡から東へ進むと、大橋が現れる。1601年に架けられ、大手門と城下町を結ぶ要の橋であった。橋の上に立てば、眼下には広瀬川が流れ、その流れが長い年月をかけて削り出した河岸段丘が広がっている。
  河岸段丘とは、川の流れによって形成された階段状の地形のこと。杉本教授によると、仙台城はこの河岸段丘を天然の堀として利用しており、非常に強固な防御機能を持っていたという。また、仙台という地名は、もともと「広瀬川の川の内側(かわうち)」に城を築いたことに由来し、この呼び方が、後に美称として「仙台(仙人の住む高殿)」に置き換えられたという。
  大橋を渡り、青葉通横にある細い大町通へと入る。現在の広瀬通や青葉通といった仙台を代表する道路は、いずれも戦後にできたもので、大町通こそが城から東へと伸びるメインストリートであった。そしてこの大町通と、南北の主要幹線である奥州街道が交差する地点が芭蕉の辻である。城下では最も繁華な場所であり、町割りの基点にもなった。かつては辻の四隅に瓦ぶきの二層建物が立ち並び名所とされたが、現在は小さな交差点に記念碑が残るのみだ。芭蕉の辻を左に折れ、旧奥州街道である国分町通を進む。しばらくは仙台随一の歓楽街としての顔を見せるが、さらに北へ進むと、町屋の名残を思わせる老舗の和菓子店や畳店が姿をとどめる。
  北鍛冶町付近になると、道も狭まり、眼前には北山が迫る。ここで、古地図にも名が残る二つの寺院と出会う。熊野神社は鎌倉時代に宮城郡荒巻村の総鎮守として祭られ、1667年に玄光庵の寺内に社殿が建立された。一方の玄光庵は、かつては青葉山に位置していたが、仙台城築城にあたり1600年に現在地へ移転した。曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来だが、大日如来も重視された。現在は奥州仙臺七福神の一つ寿老人を祭る霊場としての信仰も集めている。
  やがて青葉神社の鳥居が見えてくる。伊達政宗は仙台城の北方、鬼門の地にあたる北山に、光明、東昌、覚範、資福、満勝の5寺を整備した。青葉神社は、1874年に武振彦命(伊達政宗)を祭神として建立された神社で、古地図には描かれていない新しい存在である。しかし、毎年5月に開催される「仙台青葉祭り」でのみこし渡御など、多くの人に親しまれている。 
 古地図を片手に歩けば、道や神社、寺院の配置には意味があり、人々の暮らしや信仰が刻まれていると気づく。絶えず変化する現代の街には、400年前に描かれた都市構想が今もなお息づいている。その足跡をたどることは、過去を懐かしむだけではなく、今の暮らしを支える歴史の重みを体感することでもある。   (高橋温)