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【紀行】福島断縦断記 総距離96キロを徒歩で

  弊部の夏合宿が福島県の飯坂温泉で開催されると決まったとき、私の脳裏に浮かんだのは、かの松尾芭蕉と門人・河合曽良の姿だった。「おくのほそ道」の道中、彼らも飯坂に訪れたのだ。

 しかし、芭蕉が残した飯坂評は散々なものだった。「雷はうるさく雨漏りもひどい。蚕や蚊がいて寝るどころではなく、持病もぶり返して死ぬ思いだった」と、まさかの酷評である。

 果たして、その評価は妥当なのだろうか。確かめたい。だが、現代に生きる私が仙台から電車に乗り、快適に飯坂を訪れて温泉を堪能し、「芭蕉の言うことは違う」と異を唱えるのはフェアではない。彼らは、自らの足で江戸から歩いてきたのだ。飯坂は良い場所だと主張するためには、同じように歩いてこそ意味がある。

 そうして私は部員を募り、私を含め4人の同志が集まった。肝心なのは出発地点選びだが、部員と相談の結果、白河駅をスタート地点と定めた。お気づきの通り、出発の時点ですでに「白河の関」を越えている。芭蕉の足跡をたどると息巻いた割に、なんとも弱気な選択である。しかし、いくら時間を持て余した夏休みの大学生といえども、江戸から約1カ月も歩き通すのは経済的に不可能だ。さらに言い訳を重ねるなら、現代の日本は芭蕉の時代よりはるかに暑い。地球温暖化が進行する現代では、彼らもきっと「おくのほそ道」の旅をためらったに違いない。

福島交通飯坂線の終着駅である飯坂温泉駅。
今回の旅のゴール地点となった。

▼初日

 午前10時半、私たちは白河駅に降り立った。ランニングシューズのひもを固く結び、3日分の着替えでパンパンに膨れたリュックを背負う。初日の目的地は、41㌔㍍先の郡山市桑野にあるネットカフェだ。

 もちろん、芭蕉たちが足袋で歩いたことは百も承知だ。しかし、産業革命を経て科学技術が発展した現代に生きる我々が、わざわざ足袋を履く必要はないはずだ。偉大なる科学の先人たちへの感謝を胸に、私たちは白河駅を後にした。

スタート地点の白河駅。
同志が両手を挙げ、奮起している。

 国道4号線沿いを意気揚々と歩き始めたものの、その勢いは10㌔㍍を過ぎたあたりで早くも失速する。気温35度、想像を絶する過酷さだ。容赦なく照りつける直射日光が体力を奪い、皮膚がジリジリと焼けるような痛みを訴える。

 午後2時頃、12㌔㍍地点のラーメン店で遅い昼食を取る。普段なら罪悪感すら覚える濃いスープを、異常な量の汗をかいた私たちは一滴残さず飲み干した。

 泉崎、矢吹、鏡石を抜け、須賀川市を目指す。景色が変わらない国道4号線、棒のようになった足にも慣れ始めた頃、ふと後ろから声を掛けられた。少し車道寄りを歩いていたせいか、運転手からの注意だろうと身構えると「どこに行くの?」と優しい声だった。声の主は、助手席に乗った女性。白河から飯坂まで歩いていると伝えると、彼女は驚いたように笑い、「頑張ってね」と、お茶のペットボトルを1人1本ずつ渡してくれた。かつて芭蕉がその人情に心打たれ、思わず長居したという須賀川の人の良さは、現代にも脈々と受け継がれていた。満足に感謝を告げる間もなく、車は走り去ってしまった。

 思い返せば、23㌔㍍歩いてきて、歩行者とは1人もすれ違っていない。周囲に何もない道を、大げさな荷物を背負った若者が真夏に歩いているのだ。私たちは、どう見ても変人だった。

 意外にも、一番つらかったのは真昼ではない。太陽が傾き、西日が真横から突き刺してくるような時間帯であった。折あしく道路には日光を遮るものが全くなかった。日差しに耐え抜き、郡山市に入った頃には午後7時を過ぎていた。夕食を済ませ、目的地まで残り4㌔㍍。すっかり日も沈んで涼しくなり、汗が急速に冷えて肌寒さすら感じる。目的地のネットカフェに到着したときには、日付が変わっていた。

▼2日目

 初めてのネットカフェだったが、あまりの疲れのためであろうか、しっかりと休むことができた。この日の目的地も42㌔㍍先のネットカフェ。靴擦れで初日にリタイアした仲間1人と別れ、午前6時、私たち3人は新たな一歩を踏み出した。

 疲労の蓄積から初日以上の苦行を覚悟していたが、夜中に貼った湿布が効いたのか、足取りは思ったよりも軽やかだった。そして何より、私たちの体は歩くことそのものに慣れ始めていた。

 都会の郡山市を抜けて本宮市に入ると、再び昨日と同じ、代わり映えのしない風景が続く。景色も会話も変わらないため書くべきことは、特にない。

 63㌔㍍地点、二本松市のラーメン店でこの日も昼食を取る。さすがに2日連続のスープ完飲は体に悪いと思ったのか、誰も丼スープを飲み干さなかった。二度と訪れることはないであろうその店の割引券を、私は須賀川出身の部員に半ば強引に押し付けた。ここまで歩いてきたので、私もここが須賀川からどれだけ遠いか知っている。ただ、捨てるのが面倒だったのだ。

 65㌔㍍を過ぎた頃、1人が奇妙なことを言い出した。「足が痛くならない歩き方を見つけた」と。彼いわく、あえてペースを上げて心肺に負荷をかければ、足の痛みよりも息切れの苦しさが勝り、結果として楽になるらしい。半信半疑でペースを上げると、驚くことに、本当に足の痛みを感じない。   

 そこからの私たちは、おかしかった。初日よりも速いペースで、先頭を入れ替えながら、互いに置いていかれないよう無言で、安達太良山の雄大な自然を横目に、私たちは歩き続けた。その結果午後8時には83㌔㍍地点のネットカフェに到着してしまった。

芭蕉と曽良の像

 だが、ここには誤算があった。私たちが利用したネットカフェは、8時間を超えると料金が跳ね上がる。つまり、翌朝の出発は午前4時に決定してしまった。さらに不運は続く。個室を確保し、夕食を食べ、なくなった着替えを洗濯しようとすると、コインランドリーが混雑していた。結局、私たちに残された休息時間は、わずか3時間だった。

▼最終日

 最終日の目的地はついに飯坂温泉。ここまで来た私たちにとって、飯坂温泉までの13㌔㍍という距離はもはや存在しないに等しい。午前4時の出発は正解だった。まだ薄暗い涼しさの中、私たちは快調に歩を進める。日が昇る頃には、87㌔㍍地点の信夫山を越えていた。その後は時間に余裕があったため、ゆっくりと歩を進めた。

 そして、午前10時。ついに私たちは96㌔㍍の道のりを踏破し、飯坂の地に到着した。

 さて、肝心の飯坂である。芭蕉への反論を胸に、意気揚々と温泉に向かったが、そこには最後の試練が待っていた。3日間歩き続けたことによる日焼けと、飯坂の熱い湯の相性は、最悪だった。あまりの熱さに、一度も全身を湯につけることができなかった。

 このままでは、私も芭蕉と同じように飯坂温泉を酷評してしまう。飯坂温泉の本当の良さを知りたい方は、飯坂温泉周辺の施設を紹介した記事があるので、ぜひ弊部のウェブ限定記事を読んでほしい。私の雪辱は、そこで果たされているはずだ。    (新村輝海)

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