【ネタ記事】徒歩旅98キロ いわきから水戸 春の常盤路
そして今年3月、前回参加できなかった筆者が駄々をこねたこともあり、第2回の徒歩旅が企画された。今回歩くのはいわき駅から茨城県の水戸駅まで、計93キロ。常磐線特急ならば1時間強で着く距離だが、私たちは3日かけての踏破を目指した。交通網が発達し、大学生でもレンタカーを乗りこなす現代に、わざわざ時間とお金をかけて歩く意味はあるのか。最後まで読めば、あなたも徒歩旅がしたくなるかもしれない。
初日
旅の始まりは3月26日。本来からんとした晴天が続く冬の仙台だが、この日に限って小雨が降っていた。幸先が悪い。まだバスも地下鉄も動いていない早朝4時半に自宅を出発し、自転車で仙台駅に向かった。
この日は本学の卒業式翌日だった。そのせいか、道中のアーケード街には卒業の余韻漂う集団が多数見られた。限られた貴重な学生時代を無為に費やせることに、幸福と罪の意識を感じながら仙台駅へ急ぐ。
まだ人影の少ない仙台駅に集まった報道部員は3人。筆者以外の2人は前回の福島縦断も経験した歴戦の猛者で、心なしか面構えが違う。私たちは、この朝仙台駅を出発する全ての列車の中で2番目に早い常磐線始発、原ノ町行きで旅に出た。
電車に乗ってしばらくして、私は同志2人にペットボトルのお茶を手渡した。近所のスーパーで買った安売り品だ。渡された一人、Sは「限りないね」と言い、まんざらでもない表情で受け取った。後で知ったことだが、「ありがたいこと限りないね」を略していたらしい。彼はこのボケが相当気に入ったようで、旅の途中「(感無)量だね」「(人間万事塞翁が)馬だね」など、意味の分からない単語を発しては、筆者を困惑させた。
ここで、今回の旅の日程を示しておく。初日は、仙台駅から常磐線に乗っていわき駅へ向かう。いわき駅には朝8時半に着く。そこからひたすら自分の足で歩き、県境を超えて茨城県に入る。茨城県高萩市のホテルまで、約46キロを1日で歩く。歩行距離を考えれば、この旅最大の山場は初日だった。初日さえ乗り切れば、2日目は20キロ歩いて日立市のネットカフェに宿泊し、最終日に27キロ歩いて目的地の水戸に到着する。
話を電車の中に戻す。言うまでもないが、電車は早い。あっという間にいわき駅に着いた。この間、筆者が突然の腹痛に襲われ、いわき駅を電車内のトイレで迎えそうになる危機もあったが、何とか全員でいわき駅に降り立った。もし筆者がトイレから出られず、終点の水戸駅までトイレで過ごしていたら、そこで旅が終わるところだった。情けなくて、笑おうにも笑えない。
この日はいわき市も雨だった。準備を万端にして、午前8時40分、最初の一歩を踏み出した。歩き始めの頃は、いわき駅前の想像以上の栄え具合に驚く一行だったが、10分もしないうちに駐車場の広い郊外型店舗が現れ始め、それから1時間も歩けば道路は山の中に入っていた。
序盤は快調なペースで歩き続け、体力にも足にも限界は来そうになかった。上り坂をダッシュで登り、交互に抜かしあったり、カニ走りのような奇怪なステップを披露したりして、元気よく歩いていた。前回を経験した部員の中には「徒歩旅は甘くない」と警鐘を鳴らす者もいたが、その部員も驚くほどのペースで我々は歩みを進めていた。
途中、15キロ地点のファミリーレストランで昼食をとり、また歩き始めた。ここまで何の障害もなく歩いてきたが、スタート時からやむことなく降り続ける雨だけが問題だった。髪が雨で湿るだけでも不快なのに、水たまりに足を下ろしてしまった暁には靴下までびしょ濡れになって不快感が増す。水たまりで靴下を一足びしょ濡れにし、ファミレスで靴下を変えるも靴自体が濡れていることを失念していたため二足の靴下を使い物にならなくしていた部員Kに至っては、ファミレスを出るなり「泣きたい」と弱音を吐く始末だった。ただ、重度の花粉症に罹患している筆者からすれば、雨のおかげで花粉の飛散が抑えられるため、恵みの雨に感じられた。人間とは、まったく自己中心的な存在だ。
20キロを通過したあたりから、部員の口数が減り始めた。何か話しても、たいてい俗っぽい内容になった。話すことが無くなったのだ。それを誤魔化すようにペースを上げたが、今度は足裏の痛みが誤魔化せなくなった。
25キロ地点まで到達したところで、遂に我々は走り始めた。噓みたいな話だが、走った方が足裏は楽だ。接地時間の短さが要因だろうと考えたが、この際正確な理由なんてどうでもよい。さらにこの時、しつこかった雨も一時的に降りやみ、筆者の心は万能感に満たされていた。そして、この万能感が筆者の判断力を鈍らせた。
近くに旧跡、勿来関跡(いわき市)があると知った私は、せっかくの機会だから寄ってみようと提案した。関があるのは山の上。Kは止めたが、賛成多数で可決され、我々は勿来関に向かった。何となく察するかもしれないが、これが大失敗だった。
誤算は2つあった。1つ目は、山に登り始めた時ちょうど雨が強くなったこと。2つ目は、我々の体が既に限界に近かったのに、万能感のせいで気づけなかったこと。勿来関の先の道が、冬眠明けの熊でも出てきそうな山道だったのも精神を蝕んだ。山を下りてからも、代わり映えのない景色、しとしと降り続く雨、空腹と足の痛みにペースが上がらない。
海沿いの道に出ると、今度は海岸特有の雨か霧か分からない水滴に体力を奪われ、視界もろくに見えない。ようやく見つけた飲食店も準備中。我々は途方に暮れていた。
そんな時だった。部員の一人が「すき家」と叫んだ。こんな僻地にすき家があるはずない、絶望で幻覚が見えているのではないか、と彼を疑う部員たち。しかし、白い霧の奥から見えてきた赤い看板は、間違いなくすき家のそれだった。もはや、後光がさしているように見えた。私たちは、看板の下にあるであろう、まだ見えぬすき家に向かって一目散に走った。すき家はまさに、国道6号に現れたオアシスであった。
店舗に乗り込んだ私たちは、いっとき感慨にふけり、そのあと牛丼を食べた。すき家でこれほど感慨にふける日が来るとは思ってもみなかった。これから日本が極度の飢餓に陥らない限り、人生で最も味の濃い牛丼になるだろうと断言できた。
牛丼で希望を取り戻した私たちは、何度か休憩をはさみながら、夜7時過ぎ、初日の宿泊地(高萩市)にたどり着いた。
着いた時にはへろへろで、足の指紋が変わってしまうのではないかと思うほど足裏は湿っていた。この日47キロを歩き切った私たちは、明日の歩行距離が20キロでは物足りないと話し合い、急きょ旅程を変更した。2日目も40キロ歩き、水戸に近いひたちなか市のネットカフェに泊まることになった。
旅行の夜ということで、内心、下世話な話を楽しみにしていたが、疲労には勝てず、布団に入ると、考え事をする間もなく寝てしまった。朝が来るのが早かった。
最終日
いつまでも寝ていられそうな、深く穏やかな眠りを堪能していた筆者だったが、歩かねばという義務感で布団を出た。1人だったらずっと眠れていたのにと、この時ばかりは同志2人の存在を煩わしく思った。布団から立ち上がった時、足に残る前日の疲れを感じて不安になったが、歩き始めたら治った気がした。
この日はひたすら、国道6号を進んだ。6号線はいわきや水戸など太平洋側の諸都市を通りながら、仙台と首都圏を結ぶ物流の動脈。絶えそうもない車通りの中を探せば、必ず数台の大型トラックを見つけられる。
この大型トラックの風圧と、巻き上げる砂ぼこりは筆者の眼球に深刻なダメージを与えた。さらにこの日は、昨日とは打って変わって晴天。雨に濡れないのはありがたいと思っていたが、汗が雨と同じ役割を果たした。ただ一つ救いなのは、昨日と違い靴が濡れないことだった。
2日目の疲れもあり、歩くペースは初日より遅かったが、私たちのメンタルは初日よりはるかに快調だった。太陽の清々しさに、実は人間も光合成できるのではないかとさえ思った。
日立市に入ると、代わり映えのない住宅街が続き辟易したが、決して当初の旅程に戻すつもりはなかった。一度国道6号から外れて日立駅前のファミレスで昼食を取り、相変わらず交通量の多い6号に戻った。
次第に私たちは、歩くより走る方が楽だと分かってきた。すでに「徒歩旅」という名目は忘れられ、「ジョグ旅」へと名を変えていた。足裏は楽だし、そもそも走った方が早いし、走るのも仕方ないことのように感じられたが、落ち着いて考えると、ジョグは徒歩旅の存在意義を自ら否定するに等しい愚行だった。本当に早く進みたいなら、どこかの駅に行って、横を走る常磐線の切符を買うだけで済む話なのだ。
やがて日立市を抜け、東海村に入った。代わり映えしない住宅街は姿を消し、代わり映えしない田園地帯が私たちを出迎えた。ジョグ旅は筆者以外の部員も初経験のはずだが、いち早くガタが来たのは筆者の足だった。だんだん3人の間隔が開くようになった。
前を行く二人に離されては追いつき、離されては追いつきを繰り返して、宿泊予定のネットカフェまで残り10キロを切った時、筆者の頭に一つの邪念が生じた。今日中に仙台に帰りたいという邪念が。筆者は疲れていた。
この時、我々は東海村にいた。時刻は17時手前。仙台に帰るためには、19時11分水戸駅発の特急、ひたち23号に乗らねばならない。足に蓄積した疲労と、肩に背負う荷物さえなければ間違いなく間に合う条件だ。私はどうしても帰りたかった。ネットカフェの固い床で寝るのは嫌だった。
Kは不乗りだったが、旅行後そのまま実家に帰省するSは同調した。同調というより、私の無謀を面白半分で楽しもうとしていた。Sは、22時に水戸駅に着いたとしても、その日のうちに実家まで帰れるのだ。関東出身者をこれほど恨めしく思った日はない。この先もないことを祈っている。
私たちは走った。東海村を抜け、那珂市、ひたちなか市へと走り抜けた。不乗りだったはずのKがはるか先に行き、私たちはそれぞれ一人での戦いを強いられた。苦しかったが、何よりも帰りたかった。
しかし、9キロ走って、その日泊まるはずだったネットカフェの前に着いた時、足が動かなくなった。ネットカフェの前に座り込み、すぐ後ろにいるであろうSを待った。Sも満身創痍だった。なぜ足を動かせるのかも分からなかった。それもそうだろう。2日間で80キロ歩いたその足で、ここまでの10キロを走ってきたのだ。ひたち23号に乗ることは、とっくにあきらめた。しかしまだ光明はあった。20時13分までに水戸駅に着けば、新幹線と特急を駆使して仙台に帰ることができたのだ。Sと二人で、励ましあって水戸駅に向かった。Kは一足早く水戸駅に着き、夢物語と思われたひたちへの乗車に成功していた。疲労困憊の私たちは、信号で止まるたびに座り込んだ。足が痛すぎて、なぜか笑いが止まらなくなった。水戸駅に着いたのは20時9分。間一髪だったが、どうにか間に合った。踏破の余韻を楽しむ間もなく、改札を抜けた。
改札を抜けたそのとき、私はあることを思い出した。そして、とても嫌な気持ちになった。当たり前のことだが、特急に乗るには特急券が必要だ。先刻までずっと歩いていた私の手元に、特急券などあるはずがなかった。私は帰れなくなった。
早く帰りたいと言い出して他の二人を巻き込んだ筆者だけが帰れないというのは、はたから見れば愉快な話だろうが、当事者からすれば皮肉でもなんでもない死活問題であった。
夜の水戸駅南口
私はあきらめの良さに定評があるので、切り替えてこの日の宿泊先を探した。駅の一番近くにある宿というべき施設は、24時間営業のカラオケだった。御存じかもしれないが、カラオケは一人で使うととても高い。一縷の望みをかけて、戦友というべきSにそれとなく伝えたが、彼は知らぬ顔で水戸線に乗り込んでいった。
筆者は嘆いた。旅の途中、数えきれないほど筆者を抜かしていった常磐線は、これほど薄情な路線だったのか。嘆きはしたが、激怒する体力はなかった。大人しく宿を取り、来るべき明日に備えて体を休ませることにした。
水戸駅前には多くの人がいた。中に、オカリナと思しき楽器で嵐の「カイト」を演奏する一団がいた。その和やかな音色は、筆者の心に深い感慨をもたらした。ようやく、100キロを歩き切ったのだという達成感が込み上げてきた。先ほど、自ら手放そうとした旅の余韻が、向こうからやってきたようだった。
水戸に一人残されたおかげで、明日水戸での時間をゆっくり楽しめるのならば、それもまたよかったのかもしれない。私は「馬だね」とこの場にいない同志たちにつぶやき、翌日の水戸観光の計画を考え始めた。(平山遼)

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