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【特別インタビュー】戦争も核もない人間社会を

 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が、昨年ノーベル平和賞を受賞した。戦争を体験する人が年々減少してくる中、被ばく経験者はどのような歩みをたどり、どういった考えを持っているのか。これを知ることは学生にとって特に大きな意味を持つ。自身も長崎で被爆し、本学で長年研究者を務めた日本被団協の田中煕巳代表委員にインタビューを行った。   (聞き手は渡辺湘悟)


たなか・てるみ
1932年中国東北部(旧満洲)生まれ。45年8月9日に、長崎県長崎中学校(旧制)1年生の時爆心地から3.2キロの地点で被爆。60年東京理科大理学部物理学科を卒業後、96年まで本学で助手、助教授を務めた。85年被団協事務局長に就任。87年に一度退任後、2000年事務局長に復帰。17年代表委員に就任。24年のノーベル平和賞授賞式で、被団協を代表しスピーチを行った。

■13歳で被爆 ほぼ無傷で助かる


―原爆が落とされる直前、長崎はどのような状況だったか


 私は当時旧制中学校の1年生でした。戦争はもう末期で、4月に米軍が沖縄に上陸し6月に降伏していた。絶対日本は負けるだろうと思っていました。長崎にも米軍が上陸する可能性があると言われていたので、私たち1年生はそれに備えて野外でいろいろな仕事をしていました。授業はほとんどなく、実際に受けたのは数日か数十日しかありませんでした。


 そんなとき1945年の7月29日と8月1日に、工場地帯に爆撃が行われました。当時は日本に制空権はもうなく撃ち落とそうともしなかったから、敵機も低空で飛行して爆弾はよく命中していました。


 爆撃された工場地帯と山をはさんで反対側に私たちの学校がありました。空襲の時はその山の麓の森に逃げこんだのですが、そこから爆弾が落とされる様子がよく見えました。工場ばかりが狙われていたので、自分たちには落ちてこないだろうと思っていて全然怖くなかったです。


―そういう状況の中、45年8月9日に原爆が落とされた


 原爆が落とされた当日は、朝早くに空襲警報が鳴っていました。私の家は学校からすぐで、警報が解除された後に学校に向かっても間に合うと思い、自宅の2階で夏だったので多分パンツ一枚で本を読んでいました。


 そのとき突然爆撃機の爆音が聞こえてきました。当時は音で爆撃機を判断できるよう訓練されていて、B―29が1機だけ来たなと思ったんです。窓からのぞくとそれが見えた。8月1日の空襲の際は70機くらい来ていたので、空襲だったらもっとたくさんの飛行機が来ると思っていました。だから1機だけだと偵察機なんじゃないかと思って、気を緩めて窓から目をそらそうとしました。


 その時、音もなく目がくらむようなものすごい光が入ってきました。これはなんだ、と。命の危険を本能的に感じました。


 爆弾に近いところにいるほど危険なため、2階にいると危ないと思い、階段を駆け降りて伏せた瞬間気を失いました。だから爆風を受けた時の記憶は全くないです。


 妹とおふくろは私の姿が見えないので声を出して探しました。その声で気が付いたのですが、目を明けても外が見えない。玄関にある大きいガラス戸が私の上に覆いかぶさっていました。そのガラス戸が1枚も割れていなかった。私は原爆投下地点から3・2~3・3キロ程離れたところにいましたが、近所の建物のガラスはみんな割れていた。自分の上に乗っかっていたガラス戸だけが割れなかったから、私は大した傷を負わずに助かりました。





■悲惨な光景 忘れた感情


―原爆投下直後の街の様子は


 爆心地から400メートルのところに父方の姉が、700メートルに母方の姉がいたので、原爆投下から3日経って、行くときは「街には入れない」と言われたため山を迂回して向かいました。


 街は燃えて壊されており、すさまじい惨状でした。あの光景が、私の原爆の体験として一番大きいです。家屋は燃え、コンクリート構造の小学校も外側の一部が壊れていました。浦上天主堂の鐘も崩れ落ちていました。川をせき止めて池のようになったところに何十人もの人の遺体が浮かび、平たい野原にも焼却できない遺体がありました。


 数人そういった遺体を見た後は、もう感情が無になりました。ひどいな、くらいしか思わなくなって後は何も感じなくなりました。生物の本能として心を動かさなくなったのだと思います。


―被害を受けた親類の人たちは


 伯母さんを探さないといけなかったのですが、辺り一面焼けていてどこに伯母さんの家があるのかが全然分かりませんでした。普通だったら数十分で着くところを数時間くらいかけて探しました。


 家だと確認したところに、父方の伯母とその孫の遺体を見つけました。孫は東京帝大の数学科に入学した1年生で、食糧難で実家に帰っていました。私の家に9日にやって来るというあいさつもしていて、母親と「朝早く家を出ていれば助かったかもしれないね」と話しました。


 母方の伯母の家はつぶれてはいたけれども燃えていませんでした。近所の人などが助けてもらえるかもしれないと思い集まっていました。伯母は爆弾が落とされたとき、縁側で裁縫をしていたため大やけどを負い、私が来る少し前に亡くなっていました。トタン板の上に遺体を載せて、家の木片を集めて焼きました。母親は来るまで他の人の無惨な姿も見たからか「見なくていい」と言っていました。


 祖父も大やけどをしていましたが、私が来たときはまだ生きていました。水を欲しがりながら「ああ...、ああ...」と声を出していました。私はハンカチに水を含ませて唇につけました。


 おじさんは元気でけがをほとんどしておらず、助けを求めに行っていたのですが、10日ほど後に内部被ばくで体の組織が壊され亡くなりました。



中学3年生の頃の田中さん(本人提供)



―そういった体験をして、生き残った罪悪感のようなものは感じたか


 「罪悪感」とは、何か悪いことをしたという意味のようであまり好きではない表現です。一方で生死の境をさまよった人を見て、そういう無惨に命が奪われるような状況にその人たちを置いたことへの申し訳なさはすごくありました。またそういう人たちのために活動しなくてはとも思いました。


―病気になった際、原爆が下人だと考えたことはあったか


 体はこれまで健康で、原爆の影響を感じたことはあまりないです。ただ54年のビキニの水爆実験で原爆への国民の関心が高まっていたころ、同窓生が同窓会で会って1年も経たずに亡くなりました。その時ちょうど日本各地で急性白血病の患者が増えた時期でした。その同窓生は自分と同じような被ばく条件のはずだったので、自分も被ばく者であり健康には注意しないと、と思うようになりました。


■戦後は生活苦 大学卒業後本学へ


―終戦後、どのような生活を送ったか


 父は軍人でしたが私が5歳の時亡くなり、戦中は母子家庭で遺族年金や軍人恩給などを受け取って暮らしていました。それらが戦後占領軍の下で全てストップした上、頼りになる伯母さんたちも亡くなり貧乏な暮らしでした。私は病気よりもこの生活苦が辛かったです。


 戦争が終わる前は軍人になることが夢でしたが、戦後その夢が完全になくなり2年間ほど何になろうか迷っていました。そんな中原爆でどうしてあのようなことが起こったのか興味を持ち始めました。文章を書くことは苦手でしたが数学系の試験でいい点数が取れたので、科学者か技術屋になろうかと考えていました。


 しかし家が貧しく学校を辞めようかとも考えていて、中学2年の時に実際辞めると先生に話しましたが、「学校でも努力してあげるから」といって引き留めてくれました。奨学金をもらったり、仕事をいろんな人に探してもらったりしながら高校まで通いました。卒業が近づいたころ周りの友人が大学に行くというので私も行こうと思いました。長崎に理科系の大学がなかったのですが、兄が「家族の面倒は俺が見る」と行ってくれたので仕事の多い東京の大学に行こうと思いました。


―その後5年かけて東京理科大学に入学した


 東京で働きながら受験をしましたが、4年経ったときに、もう大学に行くのを辞めようかなとも思っていました。そんな中大学を卒業していた同級生に絶対に辞めるな、気が進まないなら俺らで願書を持っていくと言われたため、受験して合格しました。今思うと、友達に助けられてここまで来れたと思います。


―大学卒業後、本学に助手として就職した


 他の卒業生と卒業が5年遅れているため、採用しようとする企業もあまりいい顔をしませんでした。先生になるか物理の研究をしたいとも思っていました。

 そんなとき東北大の工学部から誘いが来ました。当時は高度経済成長期直後で大学院生がほとんどおらず、研究を手伝える人がいませんでした。加えて研究室単位で予算が下りるので研究室を作るために人を集めていました。なので優遇されていました。


62年、本学で助手を務めていたころの田中さん(本人提供)


―どういった研究をしていたか


 東北大工学部の材料工学科に所属していました。元々は金属系を主にやるところでしたが、当時の助教授に「鉄鋼はもう多くの人がやっているよ」と言われ工学系ではあまり扱われていなかった磁性体材料について調べていました。


 当時大学の研究室は自由で時間的な制約がなく、研究の傍ら原爆被害者の手伝いをよくやっていました。大学でも被ばく者の援護が大切だということは分かっていたので、国連へ被ばく者を連れていくためにニューヨークに1週間程滞在するということもさせてくれました。



思考の余裕が今大学にない



―本学に対してどのような印象を抱いていたか


 いい大学だなと思っていました。帝国大学の頃も女性や専門学校出身の学生も入学できて、そういう意味で民主的な学校だったと思います。


 ただ自分が教員の時学生だった人の話を聞くと、当時と比べて大学そのものがだいぶ変わってきているなと感じます。自分たちで予算を獲得してこいといわれ、研究以外のこともやらないといけなくなったため、何をしているか分からないというような声を聞きます。


―3月21日のノーベル平和賞受賞記念講演会の際、本学に「余裕がない」と話していた


 研究全般は予定通りに進むわけではなく思考する余裕が必要だと思うのですが、昔と比べ作業が増え、工学系は特に余裕がないように思います。ガサガサしている印象を受けます。私は「遊びの中でも発見がある」という言葉をよく口実に使っていましたが、今はたくさん書かないとお金が下りない。だから内容も論文というよりレポートになって新しい事実が発見できなくなっている。東北大もぐちゃぐちゃした感じを受けます。


■犠牲者の補償 訴え続ける


―研究をしながら被団協の活動を行っていた。組織をまとめる上で何を意識していたか


 その人の能力や特徴をみて、上手に力を寄せ合うと上手くいきました。内部で対立するときもありますが、被団協には殺し文句として「45年8月の広島と長崎を思い出そう」というものがあります。これを誰かがいうと静かになる。取り組み方は人によっていろんな意見があるけれども、一人ひとりにとっては長崎と広島の体験が深刻だから、あの時と比べれば我慢しなくちゃいけないことだとそれぞれが納得できるのです。


 ただ、これまでで一番私が辛かったのは、私が博士論文を書いている時でした。被団協全体で大きな運動をやるというときに、どの団体と一緒になってやるかで揉めた時がありました。その時に事務局長になってくれと言われて、引き受けたのですが、これが簡単に片付かない問題でした。それで自律神経症にかかり、医者から辞めるよういわれて事務局長を退きました。


 被団協はボランティアだから分裂するのは簡単です。でも分裂するわけにはいかない。その時もいい結果ではなかったかもしれないけれど、なんとか一つにまとまることができました。


―被団協はこれまでにどういった活動をしてきたか


 被ばく者は戦後7年間、占領軍によって原爆について語ることを禁じられていました。その後も政府は戦後からの復興を優先しようとしたからか放置され続けていました。それが54年3月のビキニの水爆実験で国民の関心が高まって一致団結し、55年8月に被団協が結成されます。自分たちの被害の補償を自分たちで獲得すること、核兵器を廃絶すること。被団協はこの二つの活動を柱としてこれまで運動を続けてきました。政府に対してもさまざまな運動を行った結果、生きている被ばく者に対しては改善をしてくれました。しかし亡くなった人々に対してはまだ何も償いをされていない。被団協では政府の考え方を戦争の受忍論と呼んでいるのですが、これは明治の考え方だと思っています。死者の方々への国家補償は実現させないといけない。ノーベル平和賞のスピーチでも、政府は死者に対して何の償いもしていないということを繰り返しました。あの繰り返しは原稿には本来なかったものです。


―昨年のノーベル平和賞の受賞は想定していたか


 被団協はこれまでも、85年や95年など5がつく年に候補に挙がるものの選ばれませんでした。2017年には核兵器禁止条約に関わった核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が受賞した時は被団協の名前も出てくると思っていました。だけど選ばれなかったので、もう被団協が選出されることはないんだろうなと思っていました。


 それが昨年決まった時は、誰も受賞を想定していませんでした。記者会見の準備もしていなかったし、被団協も授賞発表日まで東京で議員や政府に要請を行っていました。


 けれど家に帰ると、記者の人が家に押し寄せていて感想を求められました。なぜ今になって受賞となったのが、私には理解できなかったです。



2005年に国連で行われた原爆写真展で、当時の町村信孝外相(左から2人目)に説明する田中さん(中央)(本人提供)


■人との信頼が基本の社会を


―原子力の利用についてどう思うか


 原子力を大事にしたいという思いはあります。けれどあれは技術の継承が難しいのではないでしょうか。だから想定していないことが起こると正しい判断ができない。福島でも事故が起こったし、原子力から大きなエネルギーを引き出すということは人間が操作できる技術ではないと考えています。もしたまたま事故が起こらなくても、そこから先事故が起こらないという保証はありません。


―安全保障として軍事転用できるような基礎研究を助成する制度を、どう考えているか


 昔は軍人になろうと思っていたので兵器についても非常に関心がありました。だけど今の兵器は殺人兵器、破壊兵器になっていて、政治が関わる兵器ではないように思います。昔のように大砲や鉄砲で行っていた戦争の頃とは訳が違う、大破壊を引き起こすものです。安全保障というけれど、安全といっても一体何を守るのか、人間の判断でいくらでも変わります。真の国民の安全としては戦争をしないこと以外にありえません。


 核抑止という考え方も、あれはいざというときに非人道的な核兵器を使うことが前提になっています。いざというときが事故だということもありうるし、何が起こるか分かりません。核抑止という考え方は成立しないと思います。


―大学生に今後意識してほしいことは


 とにかく「戦争をしない国を作ること」を意識してほしいです。ノーベル平和賞で「戦争も核兵器もない人間社会」と話したように、人間の信頼が基本となる社会を望みます。


 昔は友達や友達の親もみんなで助け合いながら生きていました。今は小さいころから競争社会に身を置いたことで、信頼関係が希薄になり、相手に本当のことを言える環境ではないと思います。お互いに信頼する時間をたくさん作ることで、国の関係も話し合いで仲良くなり、国全体が幸せとなる社会になってほしいです。


※2025年7月18日18:10 誤字を訂正しました。


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