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【とんぺー生の夏休み2022】エッセイ部門 最優秀賞『スカートをはかない女』日野原やえ

 今年で第4回となった報道部による作文コンクール「とんぺー生の夏休み2022」(実行委員会主催)は、エッセイ部門の最優秀賞に日野原やえさんの『スカートをはかない女』を、小説部門の最優秀賞に得明希望さんの『石刃にまつわるいくつかの反論』を、それぞれ選出した。名前はいずれもペンネーム。エッセイ部門の最優秀賞の作品全文を掲載する。 


【とんぺー生の夏休み2022】小説部門 最優秀賞『石刃にまつわるいくつかの反論』得明希望



エッセイ部門 最優秀賞『スカートをはかない女』日野原やえ


 スカートをはかなくなったのは、保育園の年中組の頃からだったと思う。一つ年上の男の子にスカートをめくられて、それがいやになってはかなくなった。その男の子はいろんな人にそういうことをよくする人だったから、私の行動を変えた事件も、いつものこととして忘れられた。本当にいつものことだった。スカートめくりもその他のいたずらももっとたくさんあったはずだが、驚くほどにほとんど覚えていない。他にもスカートをめくられた人が絶対にいたはずなのに何一つ思い出せないし、自分がされたことさえおぼろげになりかけている。いちいち覚えるまでもない些細なこと、日常の一コマ。当事者になるまで疑問も関心も持たないような当たり前の風景だった。四歳か五歳の頃のことだから仕方のないことだったかもしれないが。


 それまではスカートやワンピースが大好きだった。特に真っ赤なつるつるとした生地のワンピースが好きで、着るたびに家族に自慢していた。回転すると膝上でひらりと広がる赤い裾が、鮮やかに記憶に残っている。


 とはいえ小学校を卒業するまでは、自分がスカートをはかないことに対して特別何かを思うことはなかった。田舎の小学校だったから、帰りに山や川で遊び回るのにスカートは不都合だった。周りもおしゃれに気を遣っている人は少ないように見えた。身にまとうものは汚くなければそれでよかった。


 中学と高校の制服はスカートだった。どうにかできることだなんて思っていなかったので、制服は着ていた。中学では運動部に入った。髪を短く切り、平日も休日も遅くまで練習した。制服と運動着以外のものを着ることがほとんどなくなった。


 小学校と大きく違ったのは、周りの女子が身をきれいにし始めたことだ。髪を巻いたり、爪を磨いたりしていた。それを見たり見なかったりしながら、私は付き合いやすそうな人とばかり付き合った。部活の決まりで髪が短い人。外の走り込みで日に焼けている人。かわいいものに興味がない人。中でも親しくしていた高校の友人は運動部で、髪も短く、(校則で禁止されていたから当然といえば当然だが)化粧っ気のないさっぱりとした人だった。朝が苦手なのかよく時間ぎりぎりに教室に飛び込んできて、寝癖がはねたままのこともあった。気も合っていたし、頼りになって明るくて素敵で、好きだった。


 スカートを短くしたり色つきのリップをしたりしている同級生を眺めてはあんなの校則違反だよねと言い合い、彼女らが先生に咎められているのを密かに喜んでいた。



 しかしあるとき、私は彼女の私服を見て愕然とした。彼女が白くて長いスカートをはいていたのだ。かかとの高い靴に、スウェット生地のシンプルなトップス。髪は短いまま、化粧もしていなかったけど、彼女はスカートをはいていた。


 スカート、スカートをはいている。衝撃とともに、封じていた記憶の蓋を取り落とした。彼女がハンドクリームを塗っていたところを思い出してしまった。お昼ご飯の後リップクリームを塗っていたことも、制服のポケットには折りたたみの櫛が入っていることも。彼女は私と違っていた。彼女は普通の女の子みたいに、自分の身をきれいにし、そしてスカートをはいていた。


 裏切られた、と思った。ありえないじゃない、髪も短くて大きく口を開けて笑っているようなあなたが、寝癖をつけたまま学校に来るようなあなたが、そんなきれいなスカートをはくなんて。信じられない。許せない。どうせ似合わない。


 反射的に思考を力いっぱいねじ曲げていた。私だってきっと本当はそうしたい。でもできない。だって幼い頃にスカートをめくられたことがトラウマになって、スカートをはいたりかわいい格好をしたりすることができなくなったんだ。だから私は、女になりたくてもなれないのだ。普通の女の子がこれくらいの歳で当然やるべきことを何一つやっていないのは、私がスカートをはけない人間だからだ。スカートをはけない女は女じゃない。女になれない私は、かわいくもなければそうなる努力もしない。しなくていい。だって私は女じゃないのだから。


 オフホワイトのスカートに、汚い視線がにじむような気がした。見たくないのにどうしても吸い寄せられる。彼女の笑顔がいつもよりまぶしい気がして、目を覆った。



 高校を卒業して制服を着なくなったら、私は一体どうなるのかと考えるようになった。小学生のときからずっと私服のスカートを一つも持っていなかった。これから新しいスカートが私のクローゼットに入ることがあるだろうか。未来は見えない。高校生の終わりとともに、私が女であることも終わるのかもしれない。制服のスカートでかろうじて身にまとえていた何かまで脱ぎ捨ててしまうような気がした。



 あっという間に大学生になった。あっという間に感染症が流行し、二重の意味での新生活を余儀なくされた。外出する機会が減ったことは幸いだったが、一人暮らしの暗い部屋は苦しみを増幅させた。スカートをはけない。化粧とかおしゃれとかわからない。そもそもそれ、やらなきゃいけないの? 誰も何も教えてくれないのに? 自分は被害者なのだと声高に叫んで回りたかった。


 その間に世の中は少し変わった。スカートをはかない女がいることや、スカートをはく男がいることを知った。男でも女でもない人もいたし、制服もスカートとスラックスを選べるようになっていた。安堵と同時に絶望していた。スカートは女の証明にはならなかった。髪の長さも服の趣味も身体さえも自分の生きるべき道を決めてはくれないようだった。多様性を認めようとする世界は、女ではなくてもいいと、スカートははかなくてもいいと言い放った。


 自分がそういう存在なのだと信じていると苦しみが少し和らぐような気もした。トラウマと、マイノリティ。身だしなみも整えずおしゃれに気を遣わない自分を赦すための、麻薬のような言葉だった。効果が切れるとひどい孤独感に苛まれた。たくさんの人が一様に多様性を口にしている悪夢を見た。こんなものに縋っても自分の問題は解決しないだろうことに薄々気づき始めていた。



 イヤホン越しの先生の声に慣れてきた頃、成人式がやってきた。親が積み立てをしてくれていたので着飾らないわけにはいかなかった。しかしどうしても抵抗があったので、前撮りだけ振袖を着て、式にはスーツで行くことにした。最終的にスタッフさんと母と一緒に選んだ振袖は自分が想像していた色より明るく、大きな柄があしらわれていた。年末ぎりぎりに前撮りの予約をし、大雪が降る中美容室に入った。


 その美容室は初めて行くところだった。老婦人が二人で営むこぢんまりとしたお店だった。振袖の確認と髪型の打ち合わせをした後、化粧について尋ねられた。自分でやるか、美容師さんに任せるか。恥ずかしながら化粧を全くやったことがないと打ち明けると、奥さんはなんでもないようにわかりましたと頷いて、ちょっと派手にするけど、成人式にはそれくらいが丁度いいのよと微笑んだ。


 眼鏡を外していたのでよく見えなかったが、それでも自分がだんだんと変化していくことはわかった。ヘアセットと化粧が終わって鏡に近づく。いつもの二倍は多くて黒いまつげ、人生で一番すっきりした眉毛、暑くてもそんなにならないって色に赤らむ頬、別の生き物みたいに鮮やかな唇はクレヨンのにおいがする。


 滑稽だ。笑ってしまう、自分の顔ではないみたいだった。しかし流石プロというべきか、笑ってしまうくらいきれいだった。会う人会う人きちんと私を見て、喜んでくれた。きれいな振袖を着て、濃すぎるくらいの化粧をして、髪も結った私を見て、おめでとうと言ってくれたのだ。その笑顔と言葉で、何かが解けていくような気がした。それはずっと私が欲していたもののような気がした。前撮りが終わり、親戚にあいさつを済ませる頃には雪が止んで晴れ間が見えていた。枯れ枝の先でしずくがきらきらと輝いている。



 ずっと悲しかったのだと思う。大好きなものをないがしろにされて。大好きなスカートが、誰かにとってはただの布きれに過ぎなかったことが悲しかったのだ。その悲しみが歪んで怖れと憎しみを生んだ。馬鹿にされたくないという怖れ。私がなりたくてもなれない姿を叶えているたくさんの誰かへの憎しみ。


 私がスカートをはけない決定的な理由は、あの時の男の子のせいではなかったし、私が女ではないせいでもなかった。


 私の悲しみが、私を守りすぎていたのだった。


 それがわかって、私は何かに抗うのをやめた。化粧も服装も勉強した。かわいい、きれい、うつくしい、そういうものに帰属することを許した。過去の出来事を言い訳にして見境なく呪詛をまき散らすのをやめた。自己憐憫の沼から這いだして、なりたい自分になる努力を始めた。長い長い時間と一押しで、悲しみはようやく悲しみのかたちを取り戻した。

 それからしばらくして、梅雨入りしたのに真夏のような暑さが続くようになった頃、衣替えついでに衣服の整理をした。着ない服や古くなった服を処分し、さっぱりしたクローゼットを見る。夏服を少し加えてもいいかもしれない。これからもっと暑くなるだろうから涼しげな服を一、二着……。考えて、はっと思いつく。スカートだ。すぐに服屋に行き、スカートのコーナーを探す。今まで店でスカートを探すことなんてなかったから、お店をぐるぐるとさまよい歩いて、やっとたどり着いた。真っ先に目についたのは水浅葱色のロングスカート。おそるおそる手に取って試着室へ向かう。電気が眩しい個室の中、どきどきしながら着替えてみると、鏡の中にスカートをはいた私が現れた。見慣れないような、でもとても懐かしい感じがして、思わず少しだけ回ってみる。ふわりと広がる裾は軽やかに、初夏の風がすねを撫でたような気がした。

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