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【特集・戦争と大學 第3回】戦後再び動き出す学問 国家主義から復興への貢献へ

  約80年前の「戦争」と、教育研究機関たる「大学」の姿を見つめる連載「戦争と大學」最終第3回。肥大する現代の戦争や紛争、制限が外付けされていく学問の自由、そしてそれらへの浅薄な実感。ネット社会の波及もあってか、強い言葉を見かける機会が増す一方だ。人の恐怖をあおり立てられる言葉を冷静に検討するには、まずは比較対象を知ることがてきめんに効くだろう。私たちが当事者として知るために、学術を端緒に過去を探っていく。(小平柊一朗・三川光樹)



 1945年7月10日午前0時、高等教育機関を持つ「学都」にして陸軍第二師団が置かれる「軍都」だった仙台は、アメリカ軍による空爆を受け、街は焼け野原となった。仙台空襲である。死者は千人を超え、東北帝国大でも片平地区の約4割が焼失した。



空襲後の工学部付近。工学部屋上から北目町付近を望む
=1945~46年頃か
(本学史料館提供。掲載に際し本紙が一部加工編集)


 現在の「杜の都」仙台を代表する青葉通や定禅寺通の大胆な景観は、戦後の復興計画の中で形作られた。建造物の速やかな復旧が迫られたのは東北帝大も例外ではない。学徒出陣や勤労動員で学生が駆り出される状況に、校舎の焼失は追い打ちをかけるように響いた。『東北大学百年史』では当時の状況を「敗戦時には、日本社会全体が困窮と疲弊を極める中で、大学もまたほぼ機能停止の状態にあった」と振り返る。いち早い機能回復を目指し、理・工・法文学部では他学科・学部の協力を得て10月の開講にこぎつけた。


帝国大から国立大へ


 47年10月には戦後の教育改革の一環で、「帝国大学」が「国立総合大学」へと改められ、「東北帝国大学」も現在の「東北大学」に改称した。大学に求められる役割としては、帝国大学令の記述「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」に対し、代わる学校教育法では「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」とされた。国家主義的な側面が廃されるとともに、教養課程の拡充を図る方針で大学は新たな歴史を重ねることとなる。


 学部においては法文学部の文・法・経済3学部への独立と、教育学部と農学部の新設とがなされた。農学部は戦後の食糧難に苦慮した背景のもと、時代の要請に応じる形で設置が果たされた。49年の改組の時点で文・教・法・経の文系4学部と理・医・工・農の理系4学部が成立する。歯学部は65年、薬学部は72年にそれぞれ設置される。


川内地区、教養部構内
=1950~60年代
(同館提供。本紙が一部加工編集)



科学の礎 脈々へ


 学問を取り巻く様相の変化は大学のみにとどまらない。現在も内閣総理大臣所轄の下で独立したアカデミーとしての機能を有す日本学術会議は、敗戦後の困窮を科学により克服するといった潮流のさなかで設立されたという。48年に制定された日本学術会議法には「科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」とある。科学が社会のためにあると広く認められる認識の下で、社会に科学を還元し貢献するという気概を読み取れる。「平和的復興」という表現からも、科学、専ら自然科学の軍事利用に傾斜した戦時期の反省を踏まえてかじを切った、科学者としての新たな志がうかがえる。
 現代でも軍事研究の話題はしばしば議論を呼ぶ。科学は科学者の所有物ではない。科学を運用する人々が存在する以上、必ず生み出した科学者の手を離れゆく。科学の発展が加速するこの時代にこそ、自然科学の有益性や高踏的な見地にとらわれることなく、改めて科学の、ひいては学問のあり方を繊細に見つめ直す必要があるのではないかと、胸を衝かれる思いである。






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