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【新聞週間】歴史 東北大の学生新聞 戦後~現代 「学園と民衆をつなぐ橋」 学生新聞の指名背負って

 日本新聞協会は、毎年10月15日から1週間を新聞週間と定めている。今年で77回目を迎える新聞週間に、戦後まもなく創刊した本学の学生新聞、東北大学新聞社発行『東北学生新聞』掲載記事から、当時の学生新聞を振り返る。そして現代へ。学生新聞の現状や今年度東北大学新聞で取り上げた主なニュースを振り返る。



 1946年6月5日、東北大学新聞社が東北地方の学生を対象に『東北学生新聞』を発刊した。38年に『東北帝国大学新聞』が休刊して以降しばらく学生新聞が発行されない状態が続いたが、戦後初めての本学の学生新聞として同紙が創刊された。50年6月『東北大学新聞』に改称、55年9月東北大学教養部新聞会発行『東北大学教養部新聞』を合併したのち、66年9月に学友会から脱退する。同年11月、学友会による東北大学新聞会(翌年12月に学友会新聞部に改称)が同名の『東北大学新聞』を発刊し、新聞社と20年に及ぶ同名2紙併存状態を経て、新聞社版は89年1月に休刊する。2006年1月、新聞部が学友会報道部に改称し現在に至る。



 47年4月25日東北大学新聞社発行『東北学生新聞』2面掲載記事「伸びゆく 学生新聞界の展望」を振り返る。戦時中、紙の統制と言論の抑制により、学生新聞はことごとく廃刊ないしは休刊に追い込まれた。終戦後、言論の解放と民主化に伴い、世論形成や啓発の機関として学生新聞は重要視される。連合軍司令部より各大学に新聞学講座が設けられ、その演習としての新聞発行の助成を受ける。各大学は続々機関紙を復刊・創刊、あるいは各校を連ねる総合機関紙を学生の手で編集、発刊するなど学生新聞は「用紙難の時代にどこ吹く風の盛況」だった。



学生新聞の本格的使命

 各人が思想や情報を発信する情報媒体として新聞の存在が大きかった当時、東北大学新聞社は「学生新聞の本格的使命」を「世相と共に浮動する軽薄な一般ジャーナリズムに追随すべきものでもなく、さればといって象牙の塔にとじこもる独善的観念的アカデミズムをぼく守すべきでもない、社会的現実の上に足をすえつつあくまで学人としての真しな理念的本質的考察を怠らないと共に、学園と民衆とをつなぐ橋として広く一般社会に対する関心と働きかけを心掛くべき」と唱えている。



他大学新聞を批評

 記事は当時の他大学や他高校の学生新聞を批評しており、『帝国大学新聞』(現在の東京大学新聞)について「トピカルな問題を一流の執筆陣を動員し、理論的に深く掘り下げていくあたり他の追随を許さぬものがある。しかしこの純然たるアカデミックな行き方も多少マンネリズムに陥っている傾向なしとせず」と指摘している。『学園新聞』(現在の京都大学新聞)については「本紙と同じく地域内各高専校の総合機関紙的な行き方」で、問題の捉え方を「かなり鋭角的で洗練されたセンス」と評価しており、その強みは「各高専校が地域的に集結していて連絡が密接であることと、東京に比して遜色ない一流の文化人が地元に居住していること」と分析している。文芸欄に一般学生のためのスペースをふんだんに設けている点も好評している。



戦後、新聞教育の普及

 戦後、各大学に新聞学講座が続々と開講された様子は、47年9月15日『東北学生新聞』第30号掲載記事「新聞学講座実現か 東北大学で開設準備進む」にも記載がある。46年春に学友会新聞部が設立されて以降、新聞学科あるいは新聞学講座設置を求める学生の声が多く聞かれていたが、日本新聞協会の好意と援助により実現されようとしていた。具体案は本学法文学部長の手元で進められ、47年秋頃から開講を目指していた。当時開講予定とされていた講座は新聞学概論、日本新聞発達史、欧米新聞発達史などで、日本新聞発達史の講師には日本のジャーナリズム、マスコミュニケーション研究の先駆者で「新聞学」の確立に貢献した小野秀雄氏の登用が確定していたと記載がある。日本新聞協会は46年9月、「有力大学の新聞講座を復活しその成長を助ける」ため、東京帝国大(現在の東京大)、早稲田大、慶応義塾大の3校へ年間12万円の助成金を補助するとし、その翌年には、神戸経済大(現在の神戸大)、日本大、京都大、東北大、東北学院専門学校(現在の東北学院大)、同志社大などが新聞学講座を開設、協会に対し助成金の交付を申請していた。CIE(民間情報教育局)が48年9月22日に発行した特別報告書「日本におけるジャーナリズム教育」には、本学では、新聞学科の学生たちが、大学新聞『東北学生新聞』および河北新報社で、実習訓練が受けられるようにする計画が進められていたと記載がある。戦後占領期に大学の新聞教育がうたわれた背景として、占領期日本の言論統制に関わったGHQの部局の一つで宣伝など文化戦略を担ったCIEの進歩派、初代局長ケネス・ダイク代将の「次代の新聞人を養成するため教育機関を整備する」という意向に日本の新聞界が応えたことが挙げられる。世論を形成する一つの重要な要素であった新聞。ダイク代将は保守派によりCIE局長の任を解かれアメリカに帰国する直前、日本の各新聞・通信社の幹部約100名を集めた懇親会にて46年5月27日、「新聞の自由」に関するスピーチを行い、新聞人養成に向けた教育機関の整備等の要望を残した。同年7月23日、日本新聞協会の創立総会が開かれ、定款第3条に「新聞教育の普及」の条項が盛り込まれる。日本新聞界はダイク代将の要望に応える形となった。





学生新聞は今

 先人が守り育んできた学生目線の報道機関「学生新聞」の発行を現在も続けている大学は新聞全盛期の数には及ばないが存在する。国内の国立大学86校の学生新聞発行状況を調査したところ、現在も発行が確認できた大学は、北海道大、東北大、筑波大、東京大、東京工業大、一橋大、横浜国立大、京都大、熊本大、鹿児島大の10校で、廃刊または休刊が確認できた大学は18校であった=図=。一橋新聞部発行『一橋新聞』は今年で創刊100周年を迎えた。東京芸術大、東京海洋大は大学の合併を繰り返しており、各大学図書館に合併校の学生新聞を所蔵している。学生新聞を発行していたサークルの休部や廃部により、学生新聞は減少傾向にある。大学公認の学生新聞を発行しているサークルのほか、医学部学生新聞、「新聞会」を名乗り活動の実態は不明なサークル、大学などが注意喚起を繰り返すカルト系の学生新聞も確認された。

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