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【特集・戦争と大學 第1回】解説:東北帝国大学の位置づけ

 「帝国大学」は大日本帝国憲法下における大学ゆえに、現在の「大学」とは異なる視点で考える必要性が生じてくる。



 1886年に公布された「帝国大学令」により、帝国大学は高等教育機関の中心をなすものとなった。その第1条には「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」とあり、国家主義的な目的を明確にしている。第5条には、帝大学総長は勅任、つまり天皇が任命することが定められており、第11条には、帝国大学教授は奏任官であると定められている。大日本帝国憲法において、官吏には天皇からの距離に応じて親任官、勅任官、奏任官、判任官という身分区分が存在していた。「勅任官」は、当時の各省の次官や府県の知事、陸海軍の中将などに相当し、「奏任官」は、大審院の判事や検事、陸海軍の中佐などに相当する。この勅令は各帝国大学に適用されていった。本勅令以降、法的には官立の帝国大学のみが大学であったが、1918年に公布された「大学令」により、官立のほか公立・私立の単科大学も認めることとなった。この際、「帝国大学令」は「大学令」のもとにおいて帝国大学のみに適用される規程となっている。



 東北帝国大学は1907年6月22日に創設され、11年に理科大学を、15年に医科大学を開設する。19年4月、「大学令」の施行により、それぞれ理学部・医学部となり、同年5月に工学部、22年8月には法文学部が設置された。戦前の帝国大学において文系学部が設置されたのは、北海道帝大・名古屋帝大・大阪帝大を除いた6大学で、文・法・経済学部の分立設置が認められたのは、そのうち東京帝大と京都帝大のみであった。



 東北帝大法文学部設置について、『東北大學百年史』では、国家財政の事情や、大正教養主義を背景として、専門の枠にとらわれない幅広い教養を身につけた人材を養成するという理念により、三学部を融合した文系学部を新設したと説明する。一方で34年のカリキュラム変更に伴い、法文学部は文科・法科・経済科の三学科に分けられ、学生をいずれかの学科に所属させる形を取ることとなった。これが戦後、文学部・法学部・経済学部にそれぞれ独立していく前提となる。



 「帝国大学令」は国立学校設置法の施行、「大学令」は学校教育法の施行により、それぞれ戦後に廃止された。




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